「赤鬼」 第三話 | 月下の調べ♪のステージ

「赤鬼」 第三話

第三話 「きっかけ」

 

将棋部に入部してくれた彼のことを、私は親しみを込めて「正也」と変えて呼ぶようにした。眼鏡のこともあってコンタクトに変えた彼は、瞳が意外と大きかった。私の呼び声にいちいちその瞳をきらきらさせながら見せてくれる笑顔が、愛嬌のあるものに思えて私は好きだった。

 

そのことがあまりにも純粋かつ新鮮で、呼び捨てにされると誰でも親しみを感じてくれるものと思い過ごしてしまったのはまずかった。当時付き合っていた昌子さんとの、初めての夜が明けた日、昌子、と早速呼び捨てにしてみたのが、たまたまタイミングが悪かったのか逆効果になった。「寝たからって夫婦扱いしないで」となぜか機嫌を損ねた彼女との関係は、結婚観の違いからはじまって、やがて不満をぶつけ合う収拾のつかない事態へと発展し、ついに破局を迎えた。

 

 そんなことがあっても、また彼の笑顔を見ると、なぜだか満たされる。そして、正也を見て、女性に全く縁のない男もいるのだと、ついつい自分を慰めてしまう私は偽善者だろうか。

 

 

 そのかわいい正也が、まさか将棋部でいじめられることになるとは、夢にも思わない悪夢だった。いや、いわゆるいじめが行われたという証拠は何もないし、暇な独身教師の私は部活動にずっとついてあげられた。正也は全くの初心者というわけではなく、実は戦法もある程度知っていて、すぐに部員達との対局に臨むことができた。しかし現に、入部してから半年の間ずっと、同級生も上級生も、部員の全員が彼を負かし続け、彼はただの一度も勝利することがなかった。

 

信頼する部員達を弁護すると、けして彼を排除したかったのではない。確かに、週二回の活動日に欠かさず部室に訪れる彼を暖かく迎え入れ、積極的に対局に招いたのだ。そして盤上では丁寧に、最善と思われる攻めを敢行し、正也の狙いを看破しては最小限の勢力で受け止め、部員たちそれぞれの信じる思いのまま誠実に勝利を目指しただけだったのだ。ただ正也は、そのトリックに狼狽し、その競り合いの執念に圧倒された。中終盤の複雑な局面になると、例によって彼は顔が濃く赤くなり混乱に陥った。そうでなくても慌てふためいた仕草はパニックそのものであり、そこから産み出される悪手は彼を自滅へと導いた。見かねた私は、対局時計を排除させ、手合いを落とさせたが、自滅は救いようがなく、結果は一緒だった。

 

 敗局後の感想戦では、部員のあるものは得意げになって、またあるものは親身になって、正也のどの指し手が悪かったのか指摘してあげたが、すっかり弱り切り、パニックの恥ずかしさからも顔を赤らめたままの彼のことだ。その大きな体を小さくさせ、苦笑いを浮かべるだけで返す言葉もなく、部員達の技術や、考え方をなかなか吸収できずにいたのももっともだった。

 

 

転機は、彼の笑顔に影ができてからしばらくたった頃だった。彼は将棋をやめてしまうのではないか、という私の不安は結局取り越し苦労だったが、今の彼にとっては将棋部という環境が向いていないことは疑いようもないことだった。ある日曜日にふらりと地元の将棋道場に遊びに行くと、ばったり彼が来店していたところに出くわした。健全な雰囲気が評判で子供達が多く集まるその将棋道場に、来店したのはそれが最初だと彼は言った。

 

 初めの1ヶ月ほどは、彼は初心者として、同じ立場の小さな子供達と主に指した。子供たちと同じように考え、同じように迷い、同じように勝つ喜びを味わっているように、気遣って毎度一緒に来店した私にはそう見えた。将棋部室では見せなかった、実に楽しそうな姿だった。そして、一歩一歩階段を上っていくような昇級システムのその将棋道場では、彼は相手に圧倒されてパニックに陥ることはなかった。笑い声の混じった感想戦では、有意義な言葉が交わされていた。

 

もとの屈託のない笑顔が戻った彼は、私に意外なことを相談してきた。

 

「先生。しばらく上達するまで、将棋部を休部させてください。」

 

なるほど。他に代わる好手もなく、それが最善手に思われた。私は教師として、それを見守る、という指し手で応じることにし、正式な休部届を後日職員室で受け取った。

 

 

将棋に楽しさを見出した彼は、どういうわけかその後、誰も想像し得ない驚異的なスピードで上達した。2ヶ月後には有段者。そのさらに2ヶ月後には道場四段。次の2ヵ月後の2年生になってから間もない頃、ついに道場トップクラスの証である五段の称号を認定され、地元強豪の仲間入りを果たすまでに至った。