「赤鬼」 第四話 | 月下の調べ♪のステージ

「赤鬼」 第四話

第四話 「変貌」

 

正也は将棋部に帰ってきた。すでに3年生のエースと渡り合える実力を身につけていた彼は、以前とは別人のように指し手に自信をみなぎらせ、実に堂々としていた。それだけではない。その自信は将棋以外の日頃の様子にもはっきりと表れた。狼狽することが全く見受けられなくなっただけでない。部活の場につけ、授業の場につけ、例の赤面症が、ほとんど影をひそめたのだった。

ほとんど、と言ったのは全くなくなったと思っていたのが、そうではなかったからだ。

2年生の正也は本校代表として、団体戦に、個人戦に、高校生の将棋大会に出場するようになったのだが、日頃は見られなかった症状がそこにあらわれたのには驚いた。対局中に、特に局面が険しくなる中終盤あたりから、みるみる彼の顔が赤くなった。

 

 混乱している!?いや、そうではないことは以前との違いからすぐにわかった。そのいわゆる血色は良いもので、その大きな体は微動だにせず、カッと見開いたその大きな両目は盤上全体をしっかりと見据えたまま止まっていて、指し手は乱れるどころかますます冴えわたるのだった。

 

 やがて彼は県内の高校将棋界に彗星としてその名を轟かせ、早くも2年生の秋には、県大会で優勝してみせることで、天才少年ぶりを存分にアピールした。

 

 

生物が専門の北野先生に彼の対局中だけに表れる赤面のことを話すと、丸くした目で驚きを表現しながらも、こう漏らした。

「ええ、医学雑誌で見たことがあります。彼は赤面症だったでしょ。そういう体質じゃないんですかね。」

以前のことをまだ少し根に持っているのか、正也の才能がわかって将棋部に取られた悔しさをあらたにしたのか、言葉尻がちょっとぶっきらぼうで、奥歯を食いしばったのもちらと見えた。この生物マニアはもっと詳しく知っているはずだと私は直感した。

「さすが先生、医学雑誌まで読んで勉強なさっているんですね。道理で、いつもお話に知性が溢れていると感じていました。生物部の女子部員が憧れるわけだなあ。」

少しおだてると、いえいえ、たいしたことありませんよ、と言いながらも機嫌をなおし、この博識ぶった男は得意になって、隠していたものをぺらぺらとひらけ出した。

「たしかに人間っていうのは、集中力が高いレベルになると、活性化した血液の流れが頭部に集まって、頭や顔までもが赤くなる場合があるんですよ。そのさらに極端なケースですが、知恵熱、というものが本当にあるらしいのです。彼の対局中に体温を測ったら熱があるかもしれませんよ。38℃くらい。いやいや、病気じゃないんだそうです。それがよく表れる佐藤を液体に例えていうなら、沸点が非常に高い人種、ということですね。きっと。」

高い集中力!そういうことか!生物学や医学のことは詳しくない私だが、正也は将棋が強くなる稀有な素質を持った人間だということが理解できた。そして、それはまだ開花したばかりなのだということも。

 

その後の正也の勢いは増すばかりだった。高校生大会では個人戦県代表を何度も獲得し、最後の高校全国大会では準優勝して一躍校内のヒーローとなった。高校生大会だけでなく一般県大会にも参加するようになった彼は、予選突破はもちろん、ベスト8の常連となりつつあった。もちろん私もできる限り観戦しにいき、威厳を増していく雄姿と、強い相手との対局で見せる赤らんだ顔を、その度ごとに確認するのだった。

 

彼の指し手の厳しさを表した、というのが真意なのだろう。ぎょろっとした目、圧倒するような風格、大きな体も相まった彼の様子を一括して、いつだったかギャラリーの誰かがこう、まさに言い当てた。まるで赤鬼だ、と。

 

私はひとつだけ気の毒なことがあった。もっと早くにこれほどの才能を開花させることができていたなら、プロへの道を目指すこともできたろうが、遅くとも中学生までに奨励会に入会するというのが常識だ。環境と、将棋との出会いに恵まれたならと正也が悔やんでいるのではないかと心配したのは結局取り越し苦労であったが、他にこれといって取り得のない彼が、将棋の世界に身を委ねて生きて行きたいという希望を持っているのは私の想像どおりだった。彼が3年生になって進路の話題が出たとき、「家業を手伝いながら、アマチュアとして、将棋で生きていく道を模索したいんです」と私に打ち明けてくれたのだ。

 

卒業を数ヶ月後に控えた冬に、彼は遂に念願の一般県代表の座を獲得し、高校生にして一般全国大会への出場の切符を手にした。県大会決勝戦の場には私も足を運び、大勢のギャラリーの一人となったが、その重苦しい雰囲気を全くプレッシャーとせず、赤らめた顔で盤面を見つめ、心地よく響く駒音の一手一手で相手陣を巧みに苦しめていき、ついに必死に粘る相手強豪を倒す瞬間を目の当たりにすることができた。

 

こんなに素晴らしい生徒の成長を、間近で見つめることができた3年間の日々が自分の中で蘇り、私は教師冥利に尽きるということを実感した。この幸せは、昨日の土曜日、実は2度目のお見合いが失敗に終わったということを補って余りあって、たとえ伴侶が無くても、生徒との交流から得られる幸せだけで満たされて生きていけそうな希望までもが見えた気さえして、とにかく震えと涙が止まらなかった。

 

ありがとう、正也。