「赤鬼」 最終話 | 月下の調べ♪のステージ

「赤鬼」 最終話

最終話「卒業」
 正也にとってはじめての一般全国大会は、高校最後の公式大会でもあった。見事に予選突破、本戦2回戦まで進出するという立派な成績だった。
 彼にとって、高校の卒業は何物のゴールでもなかった。卒業式の日に彼と交わした言葉は、おめでとうとお世話になりましたではなく、がんばれよと見ててくださいだった。そして卒業後、彼は確かに名目上は家業の定食屋の店員となった。しかし実は、配達など簡単な手伝いをするだけで、大半の時間は将棋の勉強に専念しているのだとこっそり教えてくれた。彼の出場する大会を観に行き続けることで、私は彼との交流を保った。
 卒業して一年後の春、3度目の出場となった一般全国大会で、彼は弱冠19歳というその大会の最年少記録で優勝した。私は上京し、モノレールが走る傍のホテルの会場で、その瞬間に立ち会った。
 インタビューと感想戦が終わり、報道陣に囲まれた彼は優勝のスピーチの場に誘導された。私の取り越し苦労は、もはや皆無だ。さあ、正也。これ以上はないほど注目を浴びる場で、存分にかつてのお前からの卒業ぶりを証明して見せてくれ。
 スタンドマイクの前にどっしりと立ち、すでに本来の顔色に戻った彼は、左から右に流れる視線だけでフラッシュの波を沈ませると、やがてゆっくりとその口を開いた。報道陣にも、闘ってきたライバルたちにも、そして私にも、しっかりと一定間隔で目配りをしながら彼は語った。優勝の喜びを表す言葉は簡単に済ませ、この一年間模索し続けた成果を、誰も予想しない異例の発表とすることで、その短いスピーチを締めくくった。
「奨励会試験を受け、プロを目指します。」
おおう、と低く一瞬会場がどよめき、ひとしきり大きな拍手が続いた。それは、正也のように高校生になってから将棋の才能を開花させる少年たち(そういう少年は少なくない)に可能性を気付かせ、大きな希望を与えるものだった。


申込資格 :19歳以下で、四段以上のプロ棋士(日本将棋連盟正会員)から奨励会受験の推薦を得た者
受験できる級位 :満15歳以下 6級以上 、満16歳以下 5級以上 、満17歳以下 4級以上 、満18歳以下 3級以上 、満19歳以下 1級
~奨励会入会試験要項より~

 
 その年の夏の終わり。2学期の始業式を間近に控えたある日のこと。かつての正也の活躍の効果から、この2年間で部員が大幅に増えた将棋部の活動は、夏休みのその日も部室で行われ、私は学校へと駆り出されていた。4月以降、団体戦のクラスが上がったことが部員の士気を向上させ、将棋部の活動日が週五日となった。私は、顧問で多忙であることを理由に四度目のお見合いのチャンスを初めてこちらから断っていたが、それは表向きのものだった。機会の度ごとに確実に低下していく女性の質は、ついに私にとって受け入れ難いものとなっていた。
 正也は急ぎ足で久々の校門をくぐり、他の部員に気づかれて騒ぎになる前にと、携帯で私を部室の外へとこっそり呼び出してくれた。手にしているのは、先日行われた奨励会試験の、届いたばかりの合格通知。
 そうか、ついにやったか。お前も私と同じように、独りだけの戦いがしばらく続くだろうが、頑張るんだぞ。そしてまだだった、新しい門出の言葉を、今ここで交わそう。
「アマチュアからの、卒業おめでとう。」

久しぶりに少し照れくさそうな正也を見る。そうかそうか。
「あのう先生。先生には真っ先にお伝えしたいことがあって。」
相変わらずのきらきらした瞳は希望を一杯に表している。うむうむ、何だね。
「今度結婚します。」
な、なに~っ!
 
 君はもう、間違いなくスターだ。将棋を志す地元少年達の憧れの的、天才棋士だ。最大限譲って、実は何もしてあげられなかったことと、私の手が及ばない存在だったことは認めよう。しかしこんなに目をかけてあげたというのに。手を差し伸べたあの日も、晴れの舞台のあの日も、輝かしい第一歩を踏み出した今日でさえ、その場に居合わせてあげたというのに。こっそり自分だけ独身を卒業するなんてひどい仕打ちじゃないか。お前だけは、この点についてだけは、裏切らないと信じていたのに!
 そんな理不尽で身勝手な私の心の中をよそに、彼は携帯を取り出して、頼みもしない彼女の写真をカラーディスプレイで見せつけてくる。少し恥ずかしそうに照れた笑顔が、むしろ無慈悲なものに思えてきたところで、言葉が強烈な一撃となって私を襲った。
「すごい美人でしょう。彼女、気が強そうに見えるけど、ほんとはとっても優しいんです。」
冷静さを失った私は、大人げないことに、教師としてできる精一杯の言葉でやり返してしまった。それは彼が生徒だった頃はずっと、口にしてはいけないと思って堪えていた言葉でもあった。


「正也、顔が赤くなっているぞ。」


~終~