「大いなる潮流」 第三話 | 月下の調べ♪のステージ

「大いなる潮流」 第三話

第三話「男の承諾」


「サラマンドルは確かに私の経営する種牡馬保有団体『セイラーズグループ』が買約済でした。契約書ももちろん合意時に交わしていたのです。」

ここからの部分の言葉はスムーズに流れた。説明用に事前に用意していた言葉だからだ。ボールディング氏は続けた。

「現オーナーは合衆国のクリーブランドホースクラブです。代表はミスター・エリック・サンダース。彼と直に会った席で交渉し、2000万ドルでサラマンドルを購入する契約をしたのですが、とんだ狐野郎でした。」

両手を、羽を折り曲げた降り立つカモメのように広げて困った顔をしてみせた。目の前の白スーツの男は押し黙ったままだ。

「契約書には40%、つまり800万ドルの違約金の事項が設けられていました。しかし、クリーブランドホースクラブはそれにもかかわらず、日本へ売却する交渉を秘密裏に進めていたのです。」


「契約違反はよくあることではないのか。そのための高額違約金事項だろう。」

男の視線がすこしきつくなったように感じたが、男が最後まで聞かないと納得しない相手であることは、つい先刻確認済みだ。ボールディングはその質問を待っていたかのように、少しにこりともにやりともとれるような笑顔を交えて、「ここだけの話ですが。ミスター。」と付け加えながらこう答えた。

「サラマンドルの種牡馬としての我々の査定価格は、4000万ドルなんです。サラマンドルの血統、ミスタープロスペクター系は、米国でこそすでに充分花開いていますが、我々、ヨーロッパ圏ではまだまだマイナー血統。しかもこれからヨーロッパで必ず花開く血統で、サラマンドルはその主軸になる馬なのです。これは2000万ドルの見込み利益があるビッグビジネスだったというわけなんです。」


勢いがついた調子で一気にまくしたてた。一息ついて、今度は右手を握りこぶしにして、ボールディングはさらに強い調子になった。

「だから、違約金では足りない!この裏切りは我々にとって大きな損害なんです!対抗する買い手も掴んでいます。ジェダイファーム。合衆国三冠のサンデイズサイレンスや凱旋門賞馬トニィビン、果ては我々ヨーロッパの英雄、20世紀最強馬と誉れ高いダンシングブレイヴまでも手に入れて、内国産馬で世界の舞台へ踊り出ようと調子に乗っている、あのジャップ連中だ!」


用意していた言葉に弾みがつきすぎて、あっ、しまったとボールディングは「ジャップ」と言い終わってから気が付き、不意に脇と顔に同時に流れた一筋のものの冷たさにぞくりとした。目の前の男は混血で国籍不明との情報だが、実は日本人かも知れない。心象を悪くしてしまったかという懸念は、しかしそれでも男のピクリとも動かない太い眉に支配された表情を確認して、杞憂に終わったと認識できた。こんなことは銃数年来なかった。本当に流れ出てしまっていた冷や汗を顔のほうだけぬぐいながら、今度は念のためなだめ諭すように、半分だけ囁く息が混じった声で言った。


「ジェダイはおそらく4~5000万ドルを用意しているのでしょう。クリーブランドの連中にとっては多少の裏切り行為であることを考慮しても充分に採算が取れる話だというわけです。ただしこれにはジェダイ側から『ラストランのジャパンカップで勝利する』という条件がついていまして、もしその場合はレース直後に帰国せず、現地で引き渡されるところまで話がついているようです。我々としては、馬を傷つけず、レースに負けてくれればいいわけですよ。300万ドル用意しました。調べさせてもらったが、あなたは過去にレース中に手綱を狙撃するという離れ業をやってのけている。」


「わかった。銀行振込が確認され次第、取り掛かろう」

男は全てを理解したかのようで、ボールディング氏のその、語尾に息が抜ける音が聞きとれる言葉が終わったと同時にこう言って、手にしていた吸いかけの葉巻をダーツを軽く放るのに似た仕草で下方に投げ捨て、それから背を向けた。

「おお!」

男がすんなり納得してくれたことによって、隠せない喜びがボールディングの両目と口を大きく開かせた。もはや事は成ったも同然だ。ボールディングは説得することだけに全精力を注ぎ込んでいたため、男が聞かずに狙撃を承諾した、口にしにくい続く言葉は伏せ、胸に秘めたままにしてしまった。


 ボールディングが振り返ると、いつの間にか後ろのカーラは起き上がっていて、立ち止まったままこちらを見ていた。いや、その視線の、凝視の先には、ポプラの並木道を立ち去る男の後姿があるようだった。