「大いなる潮流」 第四話 | 月下の調べ♪のステージ

「大いなる潮流」 第四話

第四話「現オーナーの期待」


米国 フロリダ州 フロリダ・トレーニングセンター 


「ラスト200m、13秒1。こちらでの最終調教も軽く追って順調ですな。」

エリック・サンダースは、ジャパンカップに出走するため米国内での最終調教をこなすサラマンドルの様子を、わざわざ早朝からチェックしにきていた。並んで立っているのは調教師のロバート・スペンサーで、左手で顔にかけていた双眼鏡と、右手で構えていたストップウォッチを両方同時に下ろしながら、「ええ。何の問題もありません。オーナー。」と調度言葉を返すところだった。調教の後にはすぐスタッフが馬運車でサラマンドルを空港まで運ぶ手はずになっている。

「グッドニュースだ。もしジャパンカップに勝ったら、規定の賞金の他に臨時ボーナスを追加することが、役員会議で承認されたよ。」


サンキューミスター、とがっちり握手を交わした後、スペンサー師は口元が持ち上がった笑顔のまま、サラマンドルを連れて戻る厩舎の調教助手たちに、

「ジャパンで勝ったら、ダンナからボーナスだってよ!」

とこれまでのこの名馬の取り扱いへの労いとも、これから日本に遠征することへの励ましともとれる言葉を投げかけた。

「ジャパンのバイヤーがね。破格の価格に応じる方向だというんだよ。先約があるから、違約のことも考えると4200万ドル以上じゃないと応じられないって回答したら、なんと用意するって言ってるんだ。」

「血統屋というものは、何を考えているかわかりませんね」

自分の範疇ではないとはいえ、自分が管理している競争馬のビッグな取引を目の当たりにして、馬に関しては常に冷静に対処できることが自慢のスペンサー師も胸が躍るのを抑えられなかった。4200万ドルと言えば、サラブレッドの、いや地球上で取引される動物の歴代最高額に匹敵する。


「所変われば品変わるってな。ミスタープロスペクターの系統は、日本やヨーロッパではまだ繁栄していないから、喉から手が出るほど欲しいってわけだろう」

クリーブランドホースクラブもブリーダー(生産者)ではない。サラブレッドをあくまで競争馬として購入し、優秀な馬は引退したら繁殖用に売却するというのがグループの一貫した方針だ。サンダース氏もまた、種牡馬については相馬眼に長けているわけではなかった。


「確かに、サラブレッドは品種改良の歴史といっても、その実は血統系統の繁栄と衰退の歴史ですからね」

スペンサー師は、オーナーが退屈しないように、ワイドな視点の話題に持っていった。

「そのとおり。いくら優秀な血統でも、同じ統ばかりだと近親ばかりになって配合が困難になる。ある程度強い系統が繁栄したら、次の新しく強い系統を駆け合わせていくしかないのさ。」

「それにしても理解できないのは、これでも破格だと思っていた2000万ドルという価格が倍以上になるって話ですよ。」


「欧州も、こちら合衆国も、競馬界は馬券という事業収入が乏しくなってきている。テラ銭(控除率)の有利なカジノがオープンだから、ギャンブルとしてのホースレーシングには誰も興味がねえってわけ。」

サンダース氏はチェッと舌打ちしながら、全盛期からはやや衰退した自分のグループのことをも思いやった。

「日本ではカジノは公認ではなくて、ギャンブルは全て公営なんですってね」

「G1ともなりゃ、1レースで馬券を何億ドルも売り上げるっていうじゃないか。その4分の1はお上がせしめるから、レースの賞金は高額だし、一部は生産界や育成者も潤うってわけさ。」

日本はビジネスターゲットさ、と言わんばかりで、サンダース氏はまだまだ希望を失っていない様子だった。


本分ではないといっても、オーナー達との交流はサラブレッドという高額な生き物を扱う調教師という職業においては重要な仕事の一つだ。スペンサー師もこのテの相手との付き合いにはもう慣れたものだ。プライドを持ち上げてやればいいことで、それはあまり難しいことではない。

「では現地で落ち合いましょう。オーナー」

「グッドラック」

そういって立ち去るサンダース氏は、いかにもご機嫌といった様子だ。