「大いなる潮流」 第五話 | 月下の調べ♪のステージ

「大いなる潮流」 第五話

第五話「日本のバイヤー」

 

~1997年11月末 日本 東京都 東京(府中)競馬場~

 

吉岡輝文はジャパンカップ(日本 国際GⅠ 芝2400m)の当日、自己の所有するジェダイファームの所属馬クールミントガムのオーナーとしてパドックの中心にいた。パドックとはレース前に出走馬を引いて歩かせ観客に下見させるトラック形状の小馬場で、次の第11レースはスターホースの登場するGⅠとあって大勢のファンに柵の外を包囲されていた。クールミントガムは今日も気性が激しく、大きく首を上下に振って、手綱を引く2人の厩務員を困惑させていたが、吉岡はそんな何度も目にしている光景よりむしろ、初めて目の当たりにするサラマンドルの垢抜けた馬体にあらためて惚れ込みつつ、その落ち着いた様子に安心し切れないでいた。

──この馬が勝てば、無事に走りその能力を発揮さえすれば、日本競馬界とジェダイファームは世界に大きく躍進するはずだ──

信念と運命が、競馬という不安定な方法でテストされるという現実に、いま大きく揺さぶられている。今日はまさにそういう日なのだ。吉岡はサラマンドルを購入する資金の承認を得るに当たって、少々議論になったことを回想していた。

 

 

「あの馬には買い手がついていて、違約金、業界の信頼を裏切るリスクを考えると4200万ドルでないと応じられないって言ってきたわよ、兄さん。」

輝文の妹、淑子は、代表室に入るやいなや、サラマンドルの現オーナーであるクリーブランドホースクラブとの電話交渉の結果を口頭で報告した。彼女はジェダイファームの役員の一人で、国外渉外は統括部門である。代表室の来賓スペースのソファにはその室の主である輝文と、前代表で会長を務めている善弥が険しい顔で対峙していた。善弥は二人の父親でもあって、ジェダイは親族経営の牧場であった。先代の善弥の世界の血統と競馬運営方式を取り入れた革新的な経営によって戦後の日本競馬界のなかで大きく躍進を遂げ、今や競争馬と幼駒、繁殖馬併せて200頭を有する、一大オーナーブリーダー(所有者兼生産者)となっている。

 

淑子はここ数日の2人の議論にうんざりしながらも、サラマンドル購入に反対する善弥の側に座り、持っていたマーケティングの資料をガラスの灰皿の脇にわざと音が立つように置きつけたが、二人はその行為については特に反応しない。灰皿の中には二人が吸ったあとの煙草が中の純水を吸い尽くしつつあって、もうとっくに一掃すべき頃合いを過ぎている。

「日本にまだない新しい系統の種牡馬を輸入して、日本の牝馬にかけあわせて内国産の強い馬を生産していく。このやり方でこれまでも成功してきたではないですか。父さん。」

輝文は大きな瞳から発せられる淑子の視線は相手にせずに、善弥の説得を再開した。サラマンドルの購入にはこの会長職の父の説得が必要であった。

 

「確かに私は海外の種牡馬を積極的に取り入れてきた。しかしそれは日本馬のレベルが世界に追いついていなかった頃の話だ。世界最強レベルだったサンデーサイレンスの輸入で日本競馬は世界のレベルに追いついてきた。そのサンデーでさえ2000万ドルだぞ。凱旋門賞で勝ちきれなかった馬にこんな破格な条件はリスクが高すぎる。」

そういって、善弥は淑子が持ってきたばかりのマーケティング資料を輝文につきつけた。資料にはサラマンドルを輸入して種牡馬シンジケートを組む場合、出資者からの資金が不足していて、多額の自己資金が必要であることが示されていた。

 

「日本の競馬生産界は、まだ新しい世界の流行血統を取り入れることができないでいます。ミスタープロスペクター系の大種牡馬を手に入れる絶好の機会なんです。サンデーサイレンスのようなヘイルトゥリーズン系の繁栄の後に、相性のいいミスタープロスペクター系が繁栄するのは、アメリカで実績があることなんです。これは血統の歴史なんです。サラマンドルは日本で必ず成功し、世界のトレンドに追いつくことができるんですよ!あなたが夢見た、競馬先進国の仲間入りだ!」

輝文は、善弥の心に訴えかけた。「競馬先進国」それは善弥にとって果たせなかった夢であり、あまりにも遠かった道のりでもあった。後継者の息子は自分が歩いてきた道の到達点を見ているのだと気付くと、まだ若かった頃、マーケティングなどなしに、自分の相場眼で海外の馬を買いあさった日々が思い出され、善弥はここ数年来流れていなかった熱い血が自分の中に今うねりだしたのを止めたくない気持ちに駆られた。

 

「競馬とはレースに勝ったものがその血を残していく。日本のレースに勝った、日本のレースに適した馬がその血を残していくのが競馬事業の原則だ。」

しかし言葉はあくまで論理的である。論理は成功者が欠かしてはいけないツールだと、長男の輝文に教え込んできた帝王学を覆すつもりはない。

「ミスタープロスペクター系の日本競馬への適正が未知数というわけですね。では、ジャパンカップに勝ったら、という条件ならば?」

輝文は、咄嗟に思いついた案を、その名案ぶりに甘んじることなく真剣な眼差しとともに善弥に突き刺した。サラマンドルの強さが日本で証明されれば、国内の評価もあがるはず、ということは、目の前の競馬ビジネスの達人には説明する必要もない。

「出来高契約というわけか。うむ、よかろう」

 

 

「とま~れ~!」

パドックの周回が、号令によって一旦停止した。各馬に騎手が跨る時節の到来である。