「また、風になりたい」 | 月下の調べ♪のステージ

「また、風になりたい」

 幼い頃の彼は走るのが好きだった。彼の友達たちは人間を背負うのを重たい、煩わしいと嫌がったが、力自慢の彼は人間を苦もなく背負って走れるのを誇らしくさえ思っていた。なにより、一生懸命走ると、かけっこで一緒に走る友達を追い抜けることに快感を覚えていた。特に利き脚である右脚は彼の力自慢の源でもあり、ゆるいペースも全速のときも、彼は右脚に力をこめて強引に走った。全力疾走の練習は厳しかったが、そんな毎日が彼の心臓を他の誰よりも強く鍛え上げ、力自慢の脚をさらに丈夫にしていった。


やがて彼は若駒に成長し、大勢の人間たちを目の当たりにすることになった。かけっこがレースに変わったのである。最初は重たい砂の上、やがて軽くスピードの出る芝の上を走るようになり、レースの相手たちも徐々に強くなってきたが、その度ごとに人間たちの数も多くなり、発せられる叫び声も大きくなっていくのがわかった。はじめは驚いたが、次第にその叫び声はレースの最後に全力疾走するときに自分を励ましてくれているものだと理解できるようになり、それに応えるかのように、彼は必ず残っている全ての力をそのラストスパートに余すところなく注ぎ込んだ。全力を出し切る能力、すなわち根性こそが彼の才能なのだと周囲の人間たちは間もなく気付き、彼に厳しい試練を次々と与えていった。彼はそれを根性だけでこなし、レースに勝ち続けていった。


レースという見えない階段を上っていくに従って、やがて彼がレースで一着になれないときがでてきた。それまで一生懸命走れば必ず勝てたというのに・・・けして彼が弱くなったのではない。強いライバルたちが出現し、なかなか抜かせてくれなかったり、時には横からすっと出し抜けを食わせたりと、彼の勝利を頑強に拒むのだ。そんなライバルたちは決まって気持ちよさそうに走ること。自分も勝てばそういう気持ちに浸れるのだと信じ、背負う人間の厳しい叱咤にも耐えて彼はただひたすら走った。長い距離、短い距離、時には数日おいてすぐに強い相手と連戦しなければいけないときもあったが、それでも彼は我慢し全力を出した。こうして彼の青春の日々は、厳しいレースに耐えることで過ぎていった。


レースをはじめてから4度目の夏が近くなったある日、彼はライバルたちがなぜ気持ちよさそうに走るのか、ようやくその秘密を知ることができた。今日は背負っている人間がいつもと違う、かつて負かされたライバルに跨っていた「その人」ではないか?首をやわらかく撫でられる感触、トントンと弾むような体への合図、走りやすい重心の位置とその移動・・・彼は「その人」をすぐに好きになり、それまで我慢をしていたスタイルを忘れるかのように、力を抜いて楽に走った。それは本番のレースでも同じで、トップスピードのときは、自分の肉体を忘れ、魂だけが前に進んでいくのがわかった。終わってみれば、いつもよりさらにライバル達に差をつけて勝っていた。


彼は風になった。


次のレースでは、「その人」は背中に乗ってくれなかった。叱咤に耐えて力んで走ってみたものの、気持ちよくない。さらに次のレースでは、全力疾走のときについに右前脚に力が入らなくなり、6着と敗れた。彼ももはや若駒ではない、力任せが利かなくなってきたのだ。次のレースでもそれは同じで、結果は11着とさらにひどく、彼はもうレースに勝てないのではないかと思い始めていた。


そんなとき「その人」は、彼を助けに来たかのように、不意に彼のもとに還ってきた。季節はもう冬を迎えようとしている。「その人」と一緒にはじめられた毎朝の練習では、しきりに左肩や左前脚をポンと叩かれる。いつもとは逆に左前脚を前に出して走るよう、「その人」が指示しているのだと彼は理解した。最初はしかたなくやってみたが、利き脚でないため走りがいかにもぎこちない。来る日も来る日も左前脚で走る練習。次の段階では右前脚で走った後に途中で左前脚に変える練習。「その人」が親身に接してくれるため、彼も素直にそれに応えられた。そして、うまくできたときに「その人」が誉めて首を撫でてくれるのが、彼は何よりうれしかったのだ。練習は最初ゆっくりだったものから徐々に強くなっていき、幸せな日々はあっという間に過ぎていった。


ついに「その人」を乗せてレースをする日がやってきた。周りはいつもの手強いライバルたち。人間達の叫び声の大きさも、そのレースが非常に厳しいものであることを教えてくれていたが、彼は気持ちよく練習できたこの一ヶ月のことを思い出し、なぜか今日は勝てそうな気がしていた。

いつもどおり、ゲートに入る。目の前がひらけ、最初はゆっくり流す。冬枯れた芝の荒れた重い馬場は、たとえペースがゆっくりでもけして楽なものではなかったが、まだ衰えぬ彼の強い心臓は彼に充分な余力を残しておいてくれていた。「その人」が馬込みの外に出してくれていたので、右側だけを注意して走っていればよく余計な気苦労がない。そして冷たい風が気持ちいい・・・

右に曲がり始めるところで手綱が引かれた。わかったよと彼は右脚に力を込める。ぐいぐい加速し、先頭に並びかけるころにはトップスピードになった。風になってる!あのときと同じだ!そう思い返したとき、右回りが終り、目の前の直線コースに大きな坂が聳え立った。そしてまた右脚が痺れてくる。

その時だった。一瞬手綱が緩んで力が抜けたところで、左肩を「その人」がポンポン、と軽く叩く。そうか、ここで左脚を使うんだね!今度は逆の左前脚に力を込めて、坂の頂上へ向かう。さらに左側から気合を入れてもらい、彼はそのまま2度目の全力疾走に入った。

やっぱりぎこちない。右脚にはもう力が入らない。風になれたのもほんのひと時だけだったけど、この左脚でまだまだいける、息が続くまで・・・。人間達の叫び声が渦巻くスタンド前の直線コースを、連続スパートの息苦しさを抱えながらも、彼はついに先頭のまま駆け抜け切ったのだった。

【お疲れ様】と「その人」が掛けてくれた声も、「オグリ!オグリ!」の大合唱も、言葉がわからない彼には、おめでとう、よくやったとしか聞こえなかった。ただ、「その人」が背中でいつもと違う格好をしたので、折り返しは落ちないようにやさしく走ってあげた。

人間達が「奇跡のラストラン」と騒ぎ立てたことは、もちろん彼は知る由もなかった。時に、平成二年12月23日のことである。


「また風になりたい」彼はそう思い返しつつ、故郷の北海道に帰ってからも、しばらく「その人」を待ちつづけた。