「ステイゴールド女」 第五話 | 月下の調べ♪のステージ

「ステイゴールド女」 第五話

第五話「拍手」

2000年が明けても、ステイゴールドは休むことなく毎月レースをこなした。AJCC、京都記念、日経賞と3つのGⅡレースを2着、3着、2着。着順は相変わらずに見えるが、レースを観た者には、それまでとのレース内容の違いがハッキリと見て取れた。タイミングぴったりのスタート。差しにこだわらない積極的な位置取り。たとえスローペースであっても、早めの追い出しに鋭く反応して先頭をうかがう。瞬発力と結果さえ伴えば、最強馬の横綱相撲、そのものであった。

「強かったですね、今日のステイゴールド。」

「あはは、それで2着ってのがいいでしょ。でも、もう卒業かな?」

出遅れの克服、道中での反応の改善、斜行癖の回避。熊沢騎手の3年に渡る必死の取り組みが、ようやく結実しようとしていた。

迎えた本番、天皇賞・春(GⅠ)に、本物の横綱が出馬してきた。皐月賞馬、テイエムオペラオーである。しかしこの皐月賞馬という肩書きは、未熟な3歳時の結果を表した一時的なものでしかなかった。新聞の予想紙面は、この馬とナリタトップロード、ラスカルスズカで「3強」と一斉に報じた。

果たして、その評価は正しく、オペラオー、ラスカル、トップロードの順に、3/4馬身ずつの差でゴールになだれ込んだ。ステイゴールドの4番手という評価も結果的には正しく、スローペースに決め手を欠いたステイはトップロードからさらに3馬身離された。ただ、レースへの集中力は、それまでとは違い、抜群に高かったようにも見えた。

「土曜日はダメなの。日曜日だったら行けたんだけど。」

天皇賞・春から2週間半後、驚きのニュースを伝えようと慌てて電話したマチコからの返答は、ショータをさらに落胆させた。

「その日は大事な用事があるんだぁ。だからね、あたしの代わりにちゃんと応援してくるのよっ。立川じゃダメだからね、いい?」

驚きのニュースとは、ステイゴールドが土曜日のメインレース目黒記念(GⅡ)に急遽出走することになったことだけではない。騎手が武豊に変わったというのだ。まさか、熊沢騎手が主戦から下ろされたというのか?熊沢騎手をもいつしか応援するようになっていたショータは、一時的なものであって欲しいと内心思ったが、真相はわからなかった。

 レース当日は雨。悲しいくらいにしとしとと降る初夏の雨。ショータは午後一番には府中競馬場に乗り込んでいたが、もはや眼中にない前座のレースで遊ぶこともなく、ただ本番を待つ。午前中に分析してきたのも、この目黒記念だけだ。

 ショータの分析結果は、ハイペースならステイゴールド1番手、そうでなければ2番手の評価だった。強力な逃げ馬がいるのでハイペースは期待できるのだが、雨による重馬場という条件は不安要素だった。落ち着かずに部屋を飛び出してきてしまったショータは、到着してからはしかし何もすることができず、3時半のスタートをじっと待った。3時になると応援の垂れ幕に囲まれたパドックへ。それから地下馬道へもぐったステイを追いかけて、芝生の見えるスタンドへ。会話の相手がいない今日のショータは、透明のビニール傘を片手に、ただ黙ってステイを見守る。

 ターフビジョンがスターターの旗振りをアップで映し出し、ファンファーレのあと間もなく、スタンド前に設置されたゲートが、カシャ、と乾いた音を響かせて開く。出遅れの波乱も、GⅠレースのような一周目の大きな歓声もない。変わったことと言えば、2500mという長距離のレースなのにすぐに先行争いが始まり、競り合った2頭がぐんぐん伸びて他馬を置き去りにしていったことだ。時計と距離標識を見比べなくてもわかる明らかなハイペースで、まずは第一条件クリア。ステイは後方待機している。

 レースが第3コーナーに差し掛かり、馬群に、スタンドに、そしてショータの胸に、いつもの緊張が高まり始める。後続のペースも上がり、いつもなら熊沢騎手が反応の鈍いステイを必死に追い出しにかかるところ、武騎手はまだ強くは追い出さないでいた。逃げ馬の1頭がさらに抜け出し、そのまま第4コーナーへと突入する。先頭からはまだ10馬身以上、重馬場の直線で伸び切れるのか?残ったもう一方の条件、その不安が消せないまま、耳を傾けていた場内アナウンスは歓声で徐々にかき消されていった。

 武騎手は仕掛けの瞬間を大きく見せない。いつの間にかステイに勢いがついていて、前の馬群のカベを大きく避けてその姿を見せたときには他のどの馬よりも脚色がよく、そこへさらにムチが入って本格的なスパートに入った。残り200mで先頭に立つと、力の残っていない2線級の他馬たちは従うしかなく、ステイは2着に1馬身1/4の差をつけて勝利した。溜めて、爆発させる。熊沢騎手とは違う発想の、確かに武騎手の好騎乗が光ったレースだった。「さすが武騎手」とアナウンスまでもが称えたが、ショータは熊沢騎手でも勝てたのだと信じたかった。

レース直後、前代未聞の珍事が起きた。スタンドから拍手が起こったのだ。暖かく、優しく包み込むような、マラソンで最終ランナーがゴールするときのあの拍手と同じものだった。おめでとう、やっと勝てたね、小さい体でよく一生懸命走りとおした、そしてお疲れ様・・・ファンたちの様々な想いが込められているのが感じ取れた。もはや、ステイゴールドはGⅡなら勝って当然の馬と受け取られていたとも言えた。

悔しさがこみ上げてきたのは、ショータ自身でも予期せぬことだった。この拍手は、この拍手だけは許せないという気持ちに駆られた。彼に対してのものではないのに、こんな同情は受けたくねぇよという怒りさえも覚えた。この勝利を心から祝福するという群集の行為に違和感を覚えたのは、けして騎手のことがあったからではない。

これで終わって欲しくない、ステイはこんな勝利で満足して終わる馬じゃないんだ、これはゴールなんかじゃない!かねてから抱いていた気持ちが、消えるはずだったこの勝利で、逆に膨らんでくるのがわかった。実に2年9ヶ月ぶりの感動的な勝利という絶好のチャンスであったはずだが、それを活かせなかった不運に対しての悔しさは、逆にもうこみあげてこることはなかった。いや、彼女の不在は不運ではなかったのだ。

GⅡではない、GⅠというこの馬にふさわしい勝利が達成されたその時こそ、初めて心から「やった!」と言える、そしてあの人にも・・・。自分の気持ちをはっきりできたこの瞬間を胸に刻み込み、人だかりができた表彰式に背を向けて、ショータはひとり帰途についた。

 

 帰宅するとすぐ、部屋の電話が鳴った。夕方には珍しいことで、やはりマチコからだった。

「テレビで観たよ~。」

レースシーンを振り返り、余韻に浸ったのは少しだけだった。武騎手の騎乗ぶりも話題には出さなかったし、拍手のことにも触れなかった。

「それでね。あたし、会社辞めることにしたんだ。」

切り替えられた話題の、突然の衝撃に動揺する。今日はそのことで家族、つまり単身赴任の父親と実家を守る母親、妹を交えた4人で話し合っていたのだという。なるほど、大事な用事だ。

「これからはあたし、自分の好きなことをやって生きてくの。」

まずは、以前からやってみたかった、温泉旅館の仲居という仕事にチャレンジするのだという。また、当面熱海に住み込みになるので、競馬観戦にはあまり行けなくなるというのだ。

「ステイのGⅠだけ、行こうよ。あたし、府中まで行くからさっ。」

間をおかずマチコはこう続けてくれたので、ショータの不安はすぐに消えた。しかし、「ステイの引退」=「観戦デートの終焉」というただの予感であった図式が、近い将来確かに成立してしまうのだと通告された瞬間でもあった。一瞬訪れた悲しい気持ちを悟られないよう、しかしけして強がりでなく、彼もすぐさま言葉を返す。

「ええ。ステイ、このままじゃ終わりませんから。」

「そうよ、じゃまたね。」

ふたり、それぞれの決意を伝え合った電話は終わった。最後にあっさり同意されたのがちょっと意外で、少し拍子抜けした。