「ステイゴールド女」 第八話 | 月下の調べ♪のステージ

「ステイゴールド女」 第八話

第八話「ムチ」

「今度ね、群馬の乗馬クラブで働くことになったんだ。」

半年振りの再会の冒頭、いきなり、そして楽しそうにマチコはこんなことを告げた。温泉旅館の仲居はもう辞めたのだという。

「やっぱりあたし、お馬さん好きだし。」

この人の動機はいつも単純だ。素直というべきなのか、直感に正直とでもいうのか。深く考え込んでいるところはとても想像もできないが、その割には行動力のあることをやらかす。そういや、まだ会社にいた頃、夏休みに自転車で北海道の牧場巡りをしたこともあるって言ってたっけ。いちいち、どうしてと聞く気にもなれず、ショータはただ感心するばかりだ。

ステイゴールドの帰国第一戦、宝塚記念では、先行から会心の抜け出しを成功させたメイショウドトウが、仕掛けにもたついたテイエムオペラオーを出し抜いて、遂に念願のGⅠ勝利を達成した。直線勝負になったこともあり、ステイゴールドは4着。遠征帰りはまあこんなものかと、いきなり世界最強馬へ変貌したわけではないステイを確認して、ショータは秋の本格的なローテーションに期待しなおした。

2001年秋、ステイゴールド最後の秋。緒戦はいつもどおり京都大賞典(GⅡ)からだった。休養明けのレースはいつもどおりだろうと、テイエムオペラオーやナリタトップロードらの載っている出馬表を見てから、3着あたりに滑り込む様子をイメージして、一人で競馬場にきているショータは何も心配していなかった。

だから、異変に気がつくのが遅れた。ふと京都を実況中継している場内テレビを見上げると、もう直線に入ったあとで、ナリタトップロードをかわしてステイゴールドが先頭に立っている。オペラ、トップの2頭が巻き返してくるはずだという期待が、そのとおりになっても、頑として先頭を譲らないステイに、また徐々に裏切られていく。後藤騎手が最後の右ムチを入れ、さらに少しだけ伸びて、まさかを確信にさせたのは、しかしその瞬間だけだった。伸びた方向が左にヨレて、1馬身未満の差で追いかけていたトップロードの正面に踊り出てしまった。接触・・・?明らかな進路妨害に審議の心配をする間もなく、脚が絡まったのかトップロードがひどく前のめりになり、渡辺騎手が大きく投げ出された。大丈夫だろうか・・・。そのままゴール。気まずそうに、ステイ、オペラの順にゴール。

やってくれた、これは伝説になるだろう。あの2頭を直線でねじ伏せるというフェアな栄光を犠牲にしてまで、ステイが「伝説」を勝ち取った瞬間だった。やがてレース結果が発表され、ステイゴールド失格。ショータは、伝説にふさわしい結果だと正義感からそう考え、一番手に入線したという記録に残らなくなった結果を見つめていた自分を誇りに思った。諦めたのではない、いつも以上にもどかしく感じながら、そう思ったのだった。

次走は本番、秋の天皇賞。騎手は武豊になっていた。「お手馬がいないもんだから、『ボク、どの馬に乗ればいいんですかね?』とか言ったんだよ、きっと。」と熊沢騎手のこともあって、去年のマチコはイヤミっぽく冗談を言ったものだが、今年はそんなことはない。もうこの天才騎手しか「残っていない」のだ。そして今年もこのレースをショータは狙っている。

2年前と同じ3階席の階段で、去年のような不利がないことを二人は並んで見守る。ステイはスタートも第二コーナーでも問題がなかったが、逃げるはずの1頭が出遅れ。メイショウドトウがかわりにスローペースで馬群を引っ張る格好となった。ステイが2~3番手を内側で走ってくれるので今回はその姿をずっとターフビジョンで追いかけることができる。大きな動きがないまま、第四コーナーへ。一瞬他馬に隠れたその姿が直線に入って、ぐい、と伸びるのが見えた。

「あっ、ステイがいくよ!」

マチコの言葉だ。ショータはレースの最中に言葉を出すことはまずない。ただ今度ばかりは「いけえっ!」という心の中の言葉が、右手の握りこぶしとなって、彼女の言葉と同時に二人の間に突き上げられた。それをマチコが小さな両手で包んでくる。彼女なりの握力で、ちからいっぱい。彼がもう一方の手を添えようとしたその瞬間、しかしステイの勢いが衰えたのがわかった。左にヨレる悪い癖が出て、内側のラチにモタれかかってしまい、いくら武豊騎手が左ムチを入れてもダメ。まともに走れないステイは徐々に後退、前のほうにはドトウとオペラオー。二人の両手は力を失って下のほうへと解け、ステイのレースは終わった。結果7着。

1着争いのほうは、直線抜け出すかに見えたオペラオーを、目一杯の大外から一気に追い込んだアグネスデジタルが勝利。朝からの小雨で重くなった馬場を逆手にとり、誰も走らない脚抜きのいい馬場を確保したのが勝因だった。

4週間後、国内ラストラン、なぜか苦手のジャパンカップ。前走の教訓から、ステイに左眼だけにブリンカーが装着されたという。最後の直線コースこそブリンカー効果もあってか、ラチを避けた外を回っての武騎手の必死のムチ追いに応えてまっすぐ走ったのだが、やや早いペースにもかかわらずオペラオーやジャングルポケットの末脚に屈服。4着というそこそこの結果に終った。第四コーナーでは見せ場もあって、特に欠点もみあたらないレース振りに、ショータは逆にステイゴールドの限界を見せられたような気がした。もう7歳も末、ここまでか。ステイの次走、ラストランは香港遠征なのだというが、相手強化、遠征、ハードスケジュールとさらに悪くなる条件に、勝利の見込みはもうないもの。ショータはそう信じ、波乱万丈の数々のレースの思い出で、自分を満足させようとした。いつものもどかしさがこの日はもうこみ上げてこなかった。

「ステイ、とうとうGⅠ勝てませんでしたね。」

「そうね。でもよく走ったわ。」

さすがのマチコも、ステイの姿を見るのが最後と思うと感慨深そう。ただ、少し悲しそうな目は、心残りを訴えていた。

「有馬記念も行くよ。ステイは出ないけど。いい?」

彼女はもう分かっているかのようにそう告げ、彼も頷くだけでOKを返答した。ラストチャンスが有馬記念。失敗すれば、最後のデートだ。

そのときは、そう思った。そして、マチコへの告白のことだけで満ちた彼の心の中から、ステイはもはや分離されてしまっていた。