「ステイゴールド女」 第十話 | 月下の調べ♪のステージ

「ステイゴールド女」 第十話

第十話「奇跡の末脚」

決戦の金曜日は、遂に幕を開けた。

場所がわからなかったら電話して、という言葉は結局必要なかった。時間通りにチャイムが鳴る。こういうところはいつも几帳面だ。「よっ」と軽く言って入ってきた彼女は、しかしいつもより言葉少なげだった。ただ、質感のいい上着に、赤紫の鮮やかなロングスカートの格好はそれだけで、この部屋のじっとりとした雰囲気をかき消してしまうほどの眩さを放った。あらためて見とれている場合ではない。早速ワイドテレビ正面のS席にご案内する。彼女は左側を空けてちょこんと座り、そのスペースをショータがのそりと埋める。競馬場からショータの部屋へと場所は変わっても、レースを観戦するときの二人の位置取りはいつもと同じだ。

届いたばかりのビデオは事前再生でチェックできていない。「友」が親切にも同封してくれていたメモをこっそりカンニングして、つまらないであろう前振り、そして興味のない他のレースを頭出しでどんどん飛ばした。今日はこんなものを見るのに費やしている時間はない。デッキのカウンタが「ここから」とメモに書いてある時間になり、再生モードへ。華やかなプレ・セレモニーのあと、香港ヴァーズのゲートイン。ステイゴールドの9番のゼッケンには、日本の国旗マークとともに「黄金旅程」と香港名での記載があった。

「へぇ、こういう訳しかたをするんだぁ。」

馬名フリークのマチコは、香港名にも注目していたらしい。けして好みの可笑しいネーミングではないのに、本人は感心している様子。そのステイもゲートに収まり、最後のレースが、画面を見つめる二人の目の前で、今、始まる。

 穏やかにスタート。前の2、3頭で先行争いがはじまり、馬群がやや縦に伸びるがそれほどでもない。少し速めのペースを察してか、武豊騎手のステイは後方で待機した。日本語実況が読みあげる強豪のなかに、UAEからの刺客エクラールもいた。鞍上はまたもあのデットーリ。こちらはやや前めでレースを進める。

第三コーナーを曲がるラスト800mあたりでエクラールが先頭に立つ。そのまま巧みなコーナーワークを利して徐々に差を広げ始める。ここで動くかどうかは騎手同士の心理戦、ステイはまだ動かない。ラスト600m。気がついたときには世界のデットーリが自信満々の抜け出し。5馬身差をつけている。デットーリ得意の戦術だ。ステイも第四コーナーを迎えてようやく先団グループへと取り付くが、こいつらが邪魔で外を廻らざるを得ない。ラスト400mで直線へ。先頭と後続の差はもう7馬身ほど。ステイが動き、馬混みを捌いて3番手から2番手へ上がってくる。なぜか武騎手は手綱追いだけでムチを入れない。ついにラスト200m、5馬身差までつめよるが、勢いの伸びが止まったかのように見える。これでは届かない!言葉にしてしまいそうになるのを、レース結果を知っている理性がなんとか抑える。

すると突然、ムチが入ったわけでもないのに、ステイがギアチェンジしたかのようにぐいぐいと加速を始めた。何が起こったというのだ?武騎手は確かに手綱追いのままだ。ラスト100mを切るあたりで3馬身あまりの差、しかしもはやセイフティーリードか。速度を増しつつ2馬身、1馬身と詰め寄るが、ゴール板はその姿を現すのを待ってくれなかった。

「届かねぇじゃん!」

今度はほんとに言葉にしてしまったときに、ステイがさらにもうひと伸びを見せ、一気にエクラールをかわしてゴールした。ギアチェンジしてからの走りは、ステイがこれまで見せてくれたことのない、持ちあわせていないはずの、豪脚そのもの。最後の最後で発揮された「奇跡の末脚」だ。

「やったーっ!」

彼女がバチン、と背中を叩いてくる。くるのはわかっていたのだが、今日は上着がないからか、彼女の力がこもっていたせいか、少々痛くて、涙がにじんでくるのを止められなくなったように感じた。

「こんな末脚、今まで隠し持ってやがって。」

ごまかすように理性的に言うつもりだった言葉に感情がこもり、少し目からこぼれた。予め用意されていた新品のカシミヤのボックスティッシュが、予定外にショータ自身のためにまず役に立った。

「うふふ、『見たか!』って顔してるよ、ステイ。」

スタンド前に戻ってきて祝福されるステイを見て、そう指摘しつつ、マチコもティッシュをむしりとる。この人はそんなところまで観察していたのか。そう言えば、レース後のステイの様子なんて、見つめたことなかったな。関係者に囲まれた小さな体のステイは、まだ闘志の火がくすぶっているのか、力強い視線とやや神経質な仕草で、確かに誇らしげにその威厳を放っていた。

表彰式が終わり、ビデオを止め、画面の暗くなったテレビの電源も切る。

「あのね、ショータ」

マチコが切り出そうとするのを、もう心のゲートインが完了したショータが制する。

「待ってください、ボクからお話します。」

正面から向き合って、彼女の両腕を外側から掴み込み、視線でそう訴えかけるとわかったわと彼女は頷いた。荒くなっていた鼻息が彼女の顔に直接かかりそうになったが、この姿勢のまま顔の距離を遠くできないことに気がついて、顎の角度を少し低いものへと修正した。

「入社したときから、ずっとマチコさんのことを見てました。」

スムーズにスタート成功。予定のコースを最初はゆっくりのペースで流す。

「一緒に馬観にいけるようになったのがとても嬉しくて、」

「いつの間にか追いかけるようになったステイゴールドが勝った時、」

「マチコさんに気持ちを伝えようと、ずっと」

「ずっとそう思って、今日という日が来ました。」

少しづつ息を入れながら、徐々に心拍数のペースが上がって、用意していた言葉が第四コーナーを曲がり終えた。最後の直線を前にして、こんなに苦しくなるとは思っていなかった。きっと彼女が正面から見つめているからだ。

「マチコさんがちょっと遠くに行ったりして、」

ここにきて、用意していたはずの言葉が続かない。喉元にそれがあっても、出そうとするときの苦しみがなかなかそれを許さない。

「ステイゴールドもなかなか勝てなくって、えへへ、辛かったけど、」

咄嗟に思いついたアドリブと、照れ笑いで間をおいて、体勢を立て直す。

マチコとあらためてしっかり視線を合わせる。彼女が逸らすことはない。「今のショータなら、言える」と無言のメッセージを受けたように感じて、勢いを増した勇気を全開にしてラストの言葉を放った。

「好きです。だから、もうどこにも行かないでください。」

ついに見せることができた、彼の奇跡の末脚だ。ゴールは目前、彼女の反応を見る。

「あのね、あたし」

今度はあたしの番よね、とキラリと瞳が光って、今度は彼女が彼の両腕を外から握り返す。ショータが全身で、勝っても負けてもゴールのはずの、次の言葉を受け止めようとしていた。

「あたし、目がパッチリした人じゃないとダメなの。」

「へ?」

あまりにも唐突な発言で、一気に夢が覚めた。例によって対応の苦手なショータは、裏返った、情けない発声のあとの言葉が無い。細目のショータを気遣って、彼女はあたかも誤解を解くときのように続ける。

「あたしね、うまく言えないけど、強くて、輝いてる人に惹かれるの。そんなヒトからパッチリした目で見つめられると、もうダメ、落ちちゃうの。お馬さん好きなのも、パッチリした瞳がきれいだから。」

ショータは対象外なの、とは言葉に出さない。恋愛とはそういうものよと、その大きな瞳が真正面から発してくる光だけでそう諭してくる。経験の薄い彼は黙ったまま見つめ返して、ただ受け入れるしかない。

「会社辞めてからね、3人のオトコと付き合ったけど、もうこの人じゃないとダメってヒトに出会ったの。付き合って半年になるけど、そのヒトが来年から外国に行くことになって。あたしついて行くことに決めたの。ついこないだ、もう決めたの。」

次々と入ってくる新しい情報を処理できないまま、言葉そのものだけが耳に残る。もはや、相手とどこで知り合ったのか、何をやってるどんな人なのかなんて聞く気にもなれない。

「ショータの気持ちにはね、気がついていたのよ。でも楽しかったから、ほんっとに楽しかったから。」

その言葉を聞きたくなかったからではない。あまりの辛さに耐えられなくなって、やめてください、という声がすでにぐじゅぐじゅになって完結しなかった。

「ショータのことが可愛かったのよ!だから弄んじゃいけないって。今日はちゃんとお別れを言いにきたの。」

とめどなく涙が溢れてくる。ただそこにあったという理由だけで、彼女の腰元にしがみついて、スカートに顔を伏せて彼は泣いた。その間のことは何も覚えていない。マチコの太ももの感触も、体の温かみも、そして彼女が声をかけてくれたのかそうでないのかさえも。わかっているのは、醜い声を押し殺せなかったことと、彼女の赤紫のロングスカートを少々汚してしまったらしいことだけ。

 どのくらいたったろう、記憶が戻り、顔を上げる。彼女がいやな顔をすることもなく、ずっと起き上がるのを待ってくれていたのだと気がついて、ショータはこれ以上ないほど照れた。彼女がボックスティッシュを2、3むしり、彼の顔の汚れを拭き取った。

ショータの奇跡の末脚は、しかし彼に栄光をもたらさなかった。「これからはボクがマチコさんだけのステイゴールドになりますっ!」勝利者のものとして用意されていたこの言葉も日の目を見ることなく、ショータの胸の内ですでに消滅していた。

「じゃ、もうあたし帰るね。お腹空いちゃった。あはは。」

ショータの体を離れ、彼女は立ち上がった。玄関で背を向け、靴を履くのに手間取っているかのようだった。言葉がしばらく間をおいて、それだけがらしくないように感じた。やがてドアノブに手をかけて、振り返ってじゃあねというかわりに、

「あたしの前で泣いたオコトは、あなたで5人目よ、えへへっ。」

と最後の微笑みをプレゼントし、音もなく生じたドアのわずかな隙間にすっと消えていった。最後のも、いたずらっぽい、やはり魅力的なものだった。

やられた、今日は全てのものに裏切られた。全身の力が抜けたショータは、彼女を外へ見送ることもできないままぐったりとカーペットの上に横たわり、翌早朝の5時まで8時間、ずっと起き上がることができなかった。