「ステイゴールド女」 最終話 | 月下の調べ♪のステージ

「ステイゴールド女」 最終話

最終話「気まま」

2001年暮れの有馬記念(GⅠ)は、その年の菊花賞馬マンハッタンカフェが完勝、世代交代を印象付けて5歳のテイエムオペラオーに引導を渡した。その頃になると、ショータの後遺症はようやく癒えてきたが、「奇跡の末脚」の謎がわからないままだ。仕事納めも終えたある日、ふと思い立って、手元の香港レースのビデオを見返しはじめた。何かを忘れるかのように、一心に。何度も、何度も。


注目したのは「奇跡の末脚」にギアチェンジする瞬間。残り200mでエクラールまで5馬身差に追い詰めたところ、ここまではいい。最後の11秒間、ここからステイが見せた次元の違う加速は何だったのか。武騎手はステイに何を指示し、そしてステイの脚に何が起きたというのか。

 あれっ?おかしい。加速する直前の地点ではステイは内側のラチ沿いを走っている。右回りを終えてラスト400mの直線に入ったときは確かにラチから離れたところを走っていた。もう一度見てみる。ややっ、こいつまた斜行して内ラチにもたれてしまっている!ラスト200mという大事な場面にきて、ステイが進行方向右側にヨレて、同じラチ沿いを走るエクラールの真後ろに潜りこんでしまうというハプニングが起こっていたことにショータは気がついた。

 秋の天皇賞の記憶が蘇る。内ラチにへばりついて減速していくステイの姿。‘98年もそうだったというではないか。当時は左側だったが、ここに来て右側にモタれるなんて。ステイの悪い癖。エクラールの真後ろでなくても一見致命的だ。

武騎手は持ったままだから、手綱で左側に向け直したはず。確かに左方向へ進路変更している。もう一度見てみると、確かにこの左に向いた頃から加速がはじまっているではないか。なぜだ?今度はもう一度、少し視線を落としてこの進路変更の瞬間を見てみる。もう一度、もう一度見てみる・・・。もしや!


 手前、つまり馬が走るときの左右の脚の順番、これがキーワードになった。手前が変わっているのだ。スローで見てみるとよくわかる。手綱で左側へ行くよう指示されたため、それまで道中ほとんど右手前ばかりだった走りが、ここで左手前に変わっている。左に向いたのだから自然なことだ。そう言えば、よく左にモタれたし、左回りの府中競馬場のレースが得意だった馬だから、利き脚は左脚だったのだろう。ラスト200mの走路で見せた加速は、フレッシュな左脚とステイの気ままさが偶然産み出した、まさに「奇跡の末脚」だったのだ。

「ヤロウ、大事なレースで好き勝手に走りやがって。」

ゴール前のさらなるひと伸びも、捕らえるべきライバルに並んだことで闘争心に火がついたのだろう、と理解できた。武騎手がムチを使わなかったのも、ステイが嫌いだったとしたら───きっとそうなのだろう───むしろ好結果に繋がったのかもしれない。

流したままのビデオから誇らしげなステイの姿があらためて映し出されたのを見て、調子に乗るなコラ、とショータはこづくフリをした。


2002年が明けると、感動のラストランで締めくくられたステイゴールドの競争生涯がマスコミ界を中心に異例のセンセーションを呼んでいたのが明らかになった。書籍やビデオが続々と発売されはじめ、JRA賞は特別賞を捧げて、彼の海外2勝という偉業を称えた。ドバイで破ったファンタスティックライトが昨年は6戦4勝2着2回と絶頂期であったことも、ステイゴールドの評価を大いに押し上げた。そして香港のGⅠ勝利は、この馬の持て余さんばかりの能力を証明する揺るぎない記録となったばかりでなく、その奇跡がステイゴールドをこれまでの競馬史上有数のスターホースの座に到達させた。負け続けた苦しく長い日々が「黄金旅程」の香港名と重なって、ラストランで昇華する物語に多くの人々が涙した。

あの目黒記念の頃だったか、JRAのキャッチコピーで使われた「愛さずにいられない」。ステイを正面から写した、こう白い文字で書いてあるポスターのフレーズが今、この馬の感動の物語のテーマとして再度大きく採り上げられている。当時も今も、確かにふさわしいとショータは感じた。これこそ、まさにステイの魅力を表した形容だと。しかし、今はこういう思いも重ねて、あらためて受け入れることができる。

着順も、レースの距離もグレードも関係ない。向けられたほうに走り、せかされたらその気になってから走り、走りやすい方向に傾いてみたり、嫌いなムチを入れられたらヨロけて、ライバルへの闘争心の分だけ全力で走る。この馬は、人間たちの冷ややかな笑いや賞賛、切ない思い入れや愛情さえもよそに、その青春をただ、ただ気ままに走って過ごしていただけなのだと。


2002年もすっかり春になり、マンハッタンカフェが天皇賞・春で3つめのGⅠ勝利を収めたゴールデンウィークのさなか、不意にマチコからのメールがショータのパソコンに届いた。表題は「結婚しました」。現在はロンドンに住んでいるのだという。本文は短く、年末からの経緯にも触れられていない。

彼女が真っ赤な乗馬服と黒い帽子姿で、鬣(たてがみ)の長い白馬に跨っている写真が添付されている。ペンキの真新しいコテージと曇り空がバックで、休日の風景なのか、新婚旅行で立ち寄ったところなのか。カッコよくキメたつもりが、彼女ひとりのニヤけ過ぎた笑顔で台無しになっている。馬の脇で手綱を持っている日本人男性がダンナだという。優しく笑っていて目がパッチリしているヒトなのかどうかはよくわからないが、その穏やかさから包み込むような雰囲気がにじみ出ていて、あの彼女に「ついて行く」と言わしめたことを納得させられる。

どんな言葉が交わされているのだろう、何がそんなに可笑しいのだろう・・・写真を見れば見るほど、彼女の満ち足りた様子だけが間近に伝わってきて、逆にイギリスよりもさらに遠くの存在に思えてくる。わずかばかりの未練に気が付いて、ショータは写真から目をそらした。

メールの一番下に一言「種付け済み」って、デキちゃった結婚かよオイ、しかたねぇなぁ・・・。「最後は笑うところですよね。」と一言だけ書いてメールを返信し、同時に彼女からのメールも閉じた。

「見せつけてくれて、まったく。」

正直、うらやましかった。彼女もまた、ステイと同じように気ままに生きて、そして幸せを掴んでみせたのだ。

・・・そうか。


そうだ、あの人は見抜いてたんだ!そんなステイがいとおしく、また憧れでもあったのだ。


彼女の言葉たちが蘇る。目黒記念の時の電話も、いや最初に声をかけてくれたときにはすでに、もしかするともっともっと前からなのかも知れない。スペシャルウイークに敗れた天皇賞・秋での幻影は、そんな彼女にだけに見えたステイの輝きだったろう。ホースマンたちと多くのファンを翻弄させ続けたステイの内なるものこそに魅力を見出し、さまよえる時の生き方さえにも明かりを照らし、長い迷走のゴールを天高く差し出す。彼女はそうやってステイとともに走っていたに違いない。ショータはそう考えると、あの馬を追いかけた日々から、もどかしく、悔しかった想いだけを、全て忘れていけそうな気がした。



その後、あの、ステイゴールド女からの連絡はない。


~終~