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「焼かれたCD」 第十話

第十話「冬の切なさ 後編」


第三楽章

氷の上を、転ばぬようゆっくりした足取りで注意深く進む。

乱暴に歩いて滑って転ぶ。

最初のヴァイオリンソロが、人間がゆっくりそうっと、ひとつひとつ歩を進める様子を描き出す。その切々と続く調子、つまり人間の思いは続く合奏でも最初は同じ周期だが、途中から歩みの様子が小刻みになって、我慢できなくなっていく様子を表す。

そして、つるつると滑り、ついに大きく転んでしまう。


だが起き上がり、氷が砕け、割れ目ができるほど激しい勢いで走る。

続く第二のヴァイオリンソロは人間が走る様子。悲痛な旋律が心の叫びを歌い上げている。途中から少し乱暴な奏法が氷が割れる様子を描き、そして一休みできるところにたどり着いたのか、走る足をスローダウンさせて、立ち止まる場面になる。


南風、北風、そしてあらゆる風たちが戦っているのに耳を澄ます。

立ち止まったのは優しい南風が吹いているからだと変調したあとの流れるような合奏が訴える。しかしそれは長く続かない。北風が襲ってきたのを突然のヴァイオリンソロが速く激しいテンポで主張して、そのままフィナーレの合奏へ。ソロと合奏パートとの掛け合いが北風とその他の風々との戦いを表し、自然の壮大さを表すかのように堂々とこの曲を締めくくる。


一人の人間に直接迫ってくる冬の厳しい寒さ。それを助けてくれるのは誰もいない。そしてそれを作り出している大自然という、人間の力ではどうすることもできない大きな流れ。ヴィヴァルディが描いた冬は、厳しさが深々と迫ってきて人間が堪えきれなくなっていく様子、孤独の寂しさと無力感をも含んだ、そんな人間の切なさなのだ。



父の離婚で、治療院は母という明るさを一つ失った。新たな生活のためなのか、それともあの女と生まれてくる子供のためなのだろうか。父はさらに遅くまで治療院で働くようになったし、あの女が出産で不在の頃は治療院を不慣れな新入りの助手と二人で支えていかなくちゃいけなくって、盲目の父にとって店の切り盛りは相当ストレスになったに違いないだろう。気取り屋でたまに怒りっぽいところを見せてしまう父のことだから、そんなこんなで治療院の評判は失墜していって、その影響はことのほか大きく、患者さんの大半を占めていた体調の調整のために気軽に訪れていた人々が大幅に減ってしまったんだ。難病治療の割合が増えたわけで、仕事のハードさが父の体調を徐々に追い詰めていった。


 僕は大学に入ってからも、相変わらず人付き合いが苦手で、友達の居ない日々を音楽とともに過ごすしかなかった。一人暮らしは両親の監視からの開放であったと同時に、協力者や理解者がいなくなったことでもあったんだ。誰の助けもない学校生活の日々は意外にもハードで、実験や、気難しい講師の科目の越えがたいハードルが直接僕に襲い掛かってきた。時折憂鬱に陥ってしまう僕は、音楽で生きていきたいという希望がなければ、つぶれてしまっていたかもしれない。4年生になった頃には音響情報学を専攻した研究室に入り、芳しくない成績ながらもその希少価値からか、音響機器メーカへの就職をなぜか早々に決めることができたのは幸いだったよ。


 父が癌を発病したのはそんな時、平成5年の5月頃だった。こともあろうに舌癌で、盲目の父にとって舌を切除する、つまり言葉を永遠に失うことはコミュニケーション上致命的だったから、懸命に薬物投与による治療の道が模索されたみたいだ。入院先は同じ福岡市内のがんセンター。度々見舞いに行ったのだが、徐々に舌の状態は悪くなり、すぐに普段の会話は文字盤を指差しながらの指談となってしまった。治療院のほうはあの女がつづけていたようだが事実上ほとんど閉院となり、離婚のときの調停の条件になっていなかった僕への父の善意の仕送りはストップされてしまった。


 薬物投与のためチューブを差し込まれた父の様子はかつて気取り屋で頑固だった影もなくなり、無残だったな。喉に差し込まれたチューブには時折痰(たん)が詰まるため、言葉が使えない父には看病のため常に誰かがついてあげる必要が出て、僕も看病に駆り出されることになった。僕にとって仕送りのない、バイトと卒業研究と、徹夜も交えた看病のつらい日々は、父が結局手術をした11月を過ぎても続き、術前に全身に転移してしまっていた癌に蝕まれて父が亡くなる年末まで終わらなかった。


──

そうだ。父もまた冬の日々を送ったんだ。耐えられない、やりきれなさと無力感の日々。そんなことを思っている中で、冬のフィナーレがヘッドホンで流れ、そして重い終和音とともに壮大な情景の幕が閉じた。高速運転に移った列車は、僕が気付かないまま郡山をとうに過ぎた後で、新白河の駅を、おそらく200km/hを超したスピードのまま通過しようとしている。窓から見える景色は半分が防音壁に阻まれていて自然があまり感じ取れないが、移り行く天気は悪くなっていて、少し荒れた空の様子が季節の境目であることを象徴しているようだった。

「焼かれたCD」 第九話

第九話「冬の切なさ 前編」

 

──

躍動感に満ちたヘ長調の「秋」の後は、どこか思いつめたように胸に響いてくるヘ短調の「冬」。

第一楽章

冷たい雪の中、凍えてふるえながら

吹きすさぶ恐ろしい風に向かって人が行く

深々と降り積っていく雪と凍えてふるえる人間を表した合奏ではじまるこの曲の序奏は、突然吹きすさぶ風を模した激しいヴァイオリンソロに度々支配される。

 

休みなしに足踏みしているが

あまりの寒さに歯の根も合わない

足踏みと人間のガタガタとした震えを、合奏があまりにもダイナミックに、重く、そして美しい和音で描く。この詩の割りに誇大な表現が、一人の人間がどうしても避けることのできない寒さに堪えては堪えきれないでいる様子の切実さを描いていることを物語っている。

 

第二楽章

火の傍らで静かに、満ち足りた日々を送る。

その間、窓の外では雨が万物を潤す。

美しいことで有名なこの第二楽章の旋律を受け持つのはやはりコンサートマスターのヴァイオリン。それを暖炉にくべられた薪のパチパチとした音と雨のしとしとと降る様子を他のヴァイオリンのピツィカートが描き出す。切実な寒さを表現した第一と第三の間の、終始穏やかな楽章。

 

 

あの女、寺井恵理子が父の治療院「研鍼堂」に従業員として入ってきたのは僕が高3の頃で、当時彼女は27歳。父が教員時代の教え子でもあって、つまりは彼女も視力障害者の鍼師なわけさ。他の治療院でずっと従業員として働いていたのだけど、どういうわけか父のところに加勢に来ることになったんだ。弱視でいて、華奢で小顔。切れ長の目が特徴的な顔立ちは、障害者ということを考慮しなくても美人の部類だと言っていいくらいだったけど、盲目の父はそんなことよりむしろ彼女の若々しい話題が新鮮に、少し生意気な話しっぷりが垢抜けて聞こえていたみたいだった。父は彼女と会話をするのが密かに楽しそうで、僕はその時にしか見せない、右の口元がぴぴっと引きつりあがる父の笑顔の特徴を見抜いていたのだけれど、それはあの女も、そして母もそうだったのかも知れない。

 

治療院での母の負担は減り、早めに帰宅して家事に専念できる時間が増えたわけだけど、後から思うとそれもあの女の策略だったのかもしれない。いつ始まったか特定できないが、父とあの女の逢瀬は、最初は仕事後の短い時間、それから休日の密会と頻度が増し、徐々に隠し通すことが困難になっていった。母が遅く帰宅した父をヒステリックに問い詰めても、証拠がないだろうとタカをくくっていた父は、ああ別の用事だった、実は友人のところで呑んでいたのだととぼけ続ける、そんな夜が度々繰り返されていった。

 

 あの女は僕とはむしろ仲がよく、最初のうちはよく話し相手になってくれた。ある日「美味しい店に連れて行ってあげる」というので、滅多に無い女性とのデートの機会とばかりについていくと、あの女が出してくる話は終始、父とは会ったりはしていないし、母が随分疑っているようだが誤解だから僕からも解いてあげて欲しい、という類ものばかりだった。しかしその連れて行かれた店というのが、味にうるさい父が密かに憩意にしていた佐賀牛のステーキハウスで、僕が知る限りクラシック音楽のコンサートの帰りにしか寄らない所だった。有名店でもない、裏路地にひっそりとある、食通の主人だけでやっている店。母にも内緒にしていたくらいで、父だけの密かな愉しみだったはずのところ。ここへ父と行けるのはかつてコンサートへ引率してあげられた僕だけの特権だった。あの女の、僕に対するこのアプローチは、僕にあの女と父との関係を確信させ、あの女の言葉に悪意を感じさせ、つまり逆効果となった。あの女との付き合いは、以後僕が拒否したことで、それっきりになった。

 

やがて僕は福岡の芸工大への入学が決まり、一人暮らしで実家を離れることになったんだけど、父とあの女の関係は増長する一方で、父は帰宅しない日を度々作るようになっていた。母は何度も福岡の僕の部屋に、電話で寂しさとやりきれなさの救いを求めてきた。

「隆志、あんた何か知っとるとやなかね」

「ゆうべ寝られんやったばってん、結局昨日は帰って来んかったとよ」

「あの女は治療院を乗っ取ろうとしよっとやなかね。」

切ない思いは聞かされる側も同じだったけれど、言葉がうまく出ない僕は受話器を取る以外にはなにもしてあげられない。母の疑念も確信へ、そして更なる疑念へと徐々にエスカレートしていった。

「もう行かんでって、お願いって頭下げて頼んだとばってん・・・もう家では何も話してくれんようになったとよ・・・」

一番切羽詰ったときには僕も実家に帰ってあげたのだけれど、頭を下げて頼むときの仕草を座った僕の足元で再現してみせる母の言葉は途中から涙声のものとなって、最後にとどめていたものがなくなったようにわんわん泣いて、僕自身のやりきれなさをも責めたてられた格好になった。

 

結局数ヶ月経つとあの女の妊娠が発覚して、同時に父とあの女の関係も決定的となった。

「あの治療院も、あたしとお父さん二人で築いていったもんなんよぉ!」

ひとしきり残っていた不満を発散し離婚を決意した後の母は、激情が収まったのかさばさばしていて、その後の調停は粛々と進められた。

 

 父にしてみれば自分の恋を実らせた。母はもはや愛情の薄れた父から慰謝料と実家の一軒家と自由を手に入れた。僕はぎくしゃくした父と母の間での息苦しい日々が終り、父から充分な仕送りも継続されることになった。全ては落ち着くところに落ち着いたわけで、その過程を忘れてしまえば誰も不幸になっていないようにすら思えた。どれもこれも経済的な部分に問題が無かったからで、父の治療院の成功が成せた業でもあったんだ。しかし、それは長く続かなかった。


「大いなる潮流」 第二話

第二話「依頼の内容」


「おお、よく来てくださいました」

そう言って、一歩歩みよったとしたところでボールディングは立ち止まった。男の右手は葉巻を持ったままピクリともしない。ボールディングが返した言葉と、社交用よりも一回り大きく緩んだ笑顔に対しても、男の表情と視線も同じだった。彼は握手をしないのだったな、と事前に読み込んでおいた彼の資料の内容を思い出し、いつものビジネスの相手とは違うのだと自分に言い聞かせた。男は混血だと資料にあったが、黒髪と肌の色は、純正の東洋人に写った。日本人だろうか。スーツの内側から盛り上がりようが、相当鍛え上げた体を包んでいるであろうコトを容易にイメージさせる。これが世界一の狙撃手か。


「サラマンドルをレース中に撃って欲しいのです。」

ああ、と続けて呟いて、少し後悔した。男自身に対する妄想の最中に言葉を発してしまったため、荒唐無稽な切り出し方となったからだ。

「い、いや、馬自身は傷つけないように、レースを妨害して欲しいのです」

「詳細を言え。それから依頼の理由も。」

男がボールディングが犯してしまった再度の過ちを修正するかのように、すぐさま言葉をかぶせた。

「申し訳ない、ミスター」


ボールディングはいつもの論理的な自分を取り戻し、ネクタイを締めなおした。男は一介のテロリストなのだ。依頼の内容を最初からあらためて、順序だてた説明し始めた

「サラマンドル、とは競走馬の名前です。今年のチャンピオンステークス(英、国際GⅠ、芝2000m)の勝ち馬で、今年引退することが決まっています。その前走の凱旋門賞(仏、国際GⅠ、芝2400m)では去年に続いて連続2着でした。そう、この歴史的名馬カーラに続いての2着」

ボールディングは後ろの、柵の向こうのフィールドで首を下ろして草を食べている馬「カーラ」を、男の視界に譲り渡すように半歩引いて半身になった。いつものビジネスのときのプレゼンの癖と、誇示が混じったものであることに気がついて、また言動のあとから少し動揺して、恥じた。

「いえ、このカーラは関係ないのです。サラマンドル。そう、このカーラに負けたとは言え、血統的にはむしろ優秀であるサラマンドルのほうを、私は手に入れるはずだったのです。」

「買約済ではなかったのか?」

えっ、とボールディングは驚きを隠せなかった。一介のテロリストであるはずの男が発した一言は、サラマンドルという馬名だけでなく、その引退後の高額取引に関する裏事情も事前に調査済であることを物語っていた。確かに、依頼者に対して事前に綿密な調査を実施するというのも、男の資料に書いてあった事項だったと思い出した。

「ええ、そのはずでしたが」


話が早い。相手は一流のプロなのだ。サラマンドルの今度のレース、そのラストランを妨害し、勝たせてはならない理由に入っていくことにした。


「大いなる潮流」 第一話

第一話「待ち合わせた牧場」

 

~1997年11月 イングランド ドルセット郡ギリンガム ナショナルスタッド~

 

スタッド、とは主にサラブレッドの種牡馬を繋養する牧場施設である。ナショナルスタッドは施設自体はその名の通り国有だが、イングランドの民間オーナーにも解放されている。

 

今年も欧州の競馬界は様々なドラマを生み出し終えた後で、もうシーズンオフを迎えていた。幸運にも大レースで結果を残し、名馬の称号を手に入れることができた牡馬には、後世にその血を受け継いでいく数少ない権利が与えられることになる。シーズンオフとともに引退した名馬の何頭かがここに連れて来られるのは毎年のことで、そのなかでも早いものは既に入厩を果たしていた。

 

牧場沿いの並木道、反時計回りに数えて13番目のポプラの下。ピーター・ボールディングは、自分が指定した時間よりやや早くからそこにいて、一頭の馬が牧草を食べているのをしばらく微笑ましく見ていたが、時折走って見せる姿にまだ勢いがありすぎて、「まだ引退後の調教が行き届いていないじゃないか」と携帯電話の相手に指示を出しながら少し憤慨した様子にもなったりした。ボールディング氏はダービーと凱旋門賞を同一年制覇したこの三歳馬「カーラ」の買収に成功していて、この年の大きな収穫のひとつだったと言えたが、最大の仕事がまだ残っていた。

「用件を言え」

 

不意に背後から投げかけられた低い声量のある声にはっと振り向くと、写真で見た人物らしき男が立っていた。短髪に、太い眉、切れるように鋭い目つき。白いスーツ姿に左手はそのポケットへ。右手には既に細長い煙がゆらゆらと立ち上っている葉巻を携えていた。

「焼かれたCD」 第八話

第八話「秋の達成感」

──

イライラと恐怖の「夏」のあとにはじまるのは、再び楽しげなヘ長調の「秋」。

 

第一楽章「村人たちの踊りと歌」

村人たちは踊りと歌で、豊かな収穫を喜び、祝う。

収穫を喜ぶ村人たちが集まってのお祭りの席。強、弱、強、弱と繰り返されるのはこの楽章のテーマで、合奏で表現されているのは村人たちのワイワイとした歌と踊りだ。続いて独奏ヴァイオリンとチェロだけで表現されるのはのど自慢たちの独唱だろうか、独奏ヴァイオリンは美しく豊かに歌う女性の声で、チェロは野太く声量豊かに響く男性の声を連想させる。年に一度の、楽しく、また晴れの舞台をいうわけだ。

 

バッカスの酒のおかげで座は沸きに沸き、

突然、ヴァイオリンソロが酔っ払ってよろめく村人を描き出す。シャックリや得意になっている様子なんかも表現されているのだろうか、四季のなかでも特にユーモラスな一面だ。しかし曲調がト短調に変調したりして、泣き上戸がいるのかとも思わされる。一年の仕事や、辛かった出来事を振り返っているのだろうか。

 

ついにはみんな眠りこけてしまう。

曲調が一変し、歌と踊りに疲れきった村人たちが眠りに落ちた様子を描き出す。場が静かになり、至るところまでみんなが眠りに落ちている様子がわかる。最後は快活なテーマが戻ってきて、この楽章を締めくくる。

 

第二楽章「眠っている酔っ払い」

一同が踊りをやめたあとは、穏やかな空気が心地よい。そしてこの季節は甘い眠りが人々をすばらしい想いに誘ってくれる。

ただただ静かな合奏で、ひたすら眠りに落ちた人々が描写されている。穏やかに眠っている様子が、その安らかな空気とその人の夢を物語っている。全体をリードしているクラヴィコードのソロという見方もできるだろう。

 

第三楽章「狩」

狩人たちは、角笛と鉄砲を手に、犬たちを連れて狩に出かける。

勇ましく出かける狩人たちのテーマが合奏で表現される。

 

獣は逃げ、彼らは追いかける。

やがて2つのヴァイオリンの重和音で角笛が模写され、次に逃げる獣と勇ましい狩人が交互に表現される。

 

獣は犬と鉄砲の音に追い詰められて、傷つき疲れ果て、やがて死ぬ。

鉄砲の音が跳ねるようなソロで描写され、続く合奏のトレモロが大勢の犬たちが駆け寄る様子を物語る。物悲しげなメロディーが獣の最後を歌い上げる。狩人のテーマが勇ましく強、弱と繰り返されて、成功した狩に満足げに帰っていく様子でこの曲を締めくくる。

 

一年の仕事が見事に実った収穫の時期に歓喜する人々、仕事の成功に満足する狩人。ヴィヴァルディが描いた秋は、けして約束されたものではない仕事が無事成果に結びつき、それに満足したり、振り返ってみたりする。そんな人間たちの仕事の達成感なのだ。

 

 

父は頑なに独立・開業を主張した。詳しい事情は僕には分からないが、もはや盲学校の教員という仕事は自分の役割ではないと、父はそう考えている様子だったのが、夜毎聞こえてくる父と母の口論から徐々にわかってきた。

 

父の強い決心に押し切られる形で、母は父の公務員からの退職にしぶしぶ同意したんだ。わずかばかりの退職金は全て開業資金にまわされ、自宅近くのビルのテナントの一角に父の鍼治療院が設けられることが決まった。数ヶ月の準備期間を経て、昭和61年に開院にこぎつけることができたんだ。僕が15歳で中学三年生、高校受験を控えていた頃のことさ。

 

 治療院の名前は「研鍼堂(けんしんどう)」。教員の頃から西洋、東洋両方の医学的に研究を進めていただけあって、父の自信が表れているような名前だろ?前評判もあって、治療院は、開業初月から大盛況だった。最初は父と母の二人で患者さんをこなしていたんだけど、毎日、定刻である朝の9時から夕方の7時まで(それを過ぎることもよくあった)予約でいっぱいで、父はフルタイムで働いた。店の経営に余裕ができると、スピーカーシステムを治療ベッドの個室毎に設置してモーツアルトを中心にクラシック音楽を流すといったことも始めたのだけれど、なんと患者さんのリラックス効果という意味で予想を超えてその役割を果たしたようだったんだ。それがまた地元新聞の取材に採り上げられたりもして、治療院の人気に拍車がかかった。

 

 医学的なことはよくわからないけれど、父は鍼というある意味本格的な医術とは見なされない方法で、時には難病や怪我も治療していたらしいんだ。自律神経失調症や、白内障、交通事故の怪我のリハビリ補助や、不妊症治療に至るまで、どれも巷の病院ではなかなか回復が見込めないものについて、分野を問わず成果を上げているようだった。果ては重度の急性リウマチによる心筋炎の治療に成功して、鍼で人命を救った事例まであったくらいだ。さすがにその日は「今日は人の命を救ったぞ」と、僕に対してだけこっそり自慢してくれたんだったなぁ。

 

 僕のほうはというと、とても進学校とは呼べない普通高校なんだけど、なんとか高校受験は乗り越えることができたんだ。そこで遅れていた勉強を取り戻しながら新たな進路を見出すことになったんだけど、それまで打ち込んできた音楽に代わることって一体何だろう。なぜか理系の科目は得意だったのだけれど、人付き合いが苦手な僕には、父は跡を継がせることは考えていないみたいだし。そんな目的意識のない、さほど成績も上がらない日々がしばらく続いたんだ。

 

 音響工学。僕がそういう分野があるのを知ったのは高2の秋。詳しく調べてみると、音文化学(音声言語文化や音楽文化についての学問)、音響環境学(人間にとって最適な音環境を研究する学問)、音響情報学(聴覚情報の生理的解析や音響情報の最適化を研究する学問)といったものがあるっていうことがわかったんだ。これなら、僕でも将来音楽の仕事に関わっていくことができる!

 

 それからというもの、僕は猛烈に勉強に取り組むようになった。朝は目覚めたらすぐ学校に行くまで、夜は眠さにこらえることができる限界まで、とにかく机にしがみついていられた。学校では授業でわからないことをなりふり構わず質問するようになっていたんだ。特に数学や理科って科目はもともと好きだったからかも知れないけど、急激に成績が伸びて、高3になる頃には学校のトップクラスにまでなれた。さらに1年後の大学受験では、福岡の芸工大工学部の音響設計学科に受かることができた。

 

 あの女が現れたのは、僕が高2の冬。僕と父がそんな充実した日々を送っていた頃だった。

「天童旅行記」 最終話

最終話「帰途」


「ヒロシゲ、浮世絵の?」「歌川ですか。安藤じゃなくって?」

市街地に戻り、我々が向かったのは「広重美術館」 。下調べをしたらしい府中さん曰く「浮世絵で有名な、あの広重ですよ。東海道五十三次とか。」というが、なぜよく知られた安藤姓が使われていないのかは謎だ。時刻は10:00過ぎ、午後は帰途につくので、最後の見学場所となるだろう。


到着すると白い三角屋根の2階建ての建物は、一階部分がシックな黒い煉瓦造りとなっていた。入館料は600円。内装は真新しく、奥の2階分の吹抜けには側面一杯のステンドグラス、版画をモチーフにしていると思われる赤や青の模様の隙間から白い光がロビーに取り込まれていて、静かにくつろげる雰囲気だ。ワイドビジョンで浮世絵製法の紹介ビデオが流れている。


美術品の展示がある2階に上がる。最初の展示室に入ると年表があって、初代歌川広重、二代、三代、・・・と表記してある。どうも安藤広重とは初代歌川広重のことのようで、ここには後継者の二代目以降の作品も展示してあるようだ。


初代広重の初期の作品から晩年の作品まで、その変遷が理解しやすいように展示してある。十代の頃から見せていた才能、二十代に残した人物画の数々。人物画は活き活きとして迫力があるが、しかしこれは当時の流行の影響なのか。輪郭に重点を置かれたものが中心で、当時の雑誌の錦絵や挿絵としての作品が多い。やがて版画技術の発展もあってか、三十代の作品から色鮮やかなものが多くなると、それまで構図いっぱいに表現されていた人物画の割合が減っていき、四十台で風景画が中心となっていく。遠近を対照的に表現した構図がダイナミックで、これこそが自分の作風だと自覚したのだろうか。東海道五十三次も四十代半ばの作品で、実に多くの名作が産まれているようだ。版木の展示もあったが、実物大で観てみると恐ろしく緻密な作業であることがわかる。どんなにか広重が精力的に制作に取り組んでいたことだろう。晩年も富士三十六景など多作、この頃に確立した空の表現手法が上端と下端だけを赤や青で表して中間部分の白面に溶け込んでいく様式で、美術館のステンドグラスはこれだったのかと理解させられる。


二代目、三代目の歌川広重はまたそれぞれの作風を持っている。二代目は色のりが全体的に行き渡っていて鮮やかな印象、版画技術の向上もあってか色彩が豊かで、輪郭も鋭い感じがする。強弱の差をあまりつけないのが初代との違いだろうか、画面いっぱいに描写の力が注ぎこまれているようだ。三代目になると明治の洋風建築の作品が多くなる。赤と蒼の空は二代目、三代目と「広重の版画」の象徴として受け継がれていったようだ。


その他、数は少ないが五代目までの作品、歴代広重の肉筆画、スペースを移しての地元作家の刀剣や陶磁器の展示もあった。たっぷり1時間は過ごしただろうか。展示室の外に集まると、ふーっとみんなからため息が漏れる。ちょっとした資料スペースもあって、思い思いに過ごせるのもこの美術館の魅力だ。


一階に戻り、売店で記念品を購入してから美術館をあとにする。道をはさんで向かいに「栄春堂」という民芸品店があるので、そこを覗くことに。どうもここは二日目に訪れた将棋の館の本店らしい。実演コーナーが稼働中で、客が楽しめる大盤も置いてある。大盤をみつけると、はぶはぶさんとパブルさんが早速早指し将棋、んもうしかたないなあ。お土産の買い残しを皆さんが済ませる。をいらは他店より値段の下がっている一字彫り(テレビ将棋でよく使われているタイプですね)の駒を発見、昨日下ろした現金で購入した。


11:30頃となって、隣の「水車そば」 店で最後の昼食を済ませることに。そばは天童の名物で、ここは昨日から目をつけていたところだ。準備中になっていたが、風牙さんが率先して入店すると、いらっしゃいませ~。表示が間違っていたらしい。我々が入店すると昼メシ時ということもあって10分もしないうちに店内が客でいっぱいになる。相当な人気店らしい。全員で温かい鴨南そばをすする。いわゆる「こし」の魅力とは違う、ぶつぶつと切れる荒い感じの食感が山形のそば独特のもので、純正の素材のよさを手打ちの麺が伝え、それをあっさりした汁が支える。おなかが、まさに食欲とともに満たされる。


店を出て、JR天童駅前へ。新幹線で帰る風来坊さんと、長野へクルマで向かうパブルさんと、2人ここでお別れだ。またね~、クルマの窓から手をふりふり、夜にネット将棋でお会いしましょう。


残りの7人はセルシオとキューブキュービックに分乗し、高速に乗った。5時間半ほどの旅程は、また途中入れ替わりながらののんびりタイム。列車事故のニュースが少し入るが電波の関係で詳細がよくわからず、みんな踏切事故ぐらいに思っていた。


最後のサービスエリアで、風牙さんがご自分で経営されているスナックのお話を披露する。大物へ成長するお客さんに落ちぶれるお客さんと対照的な人間ドラマ、店内トラブルのお話、店の女の子のこと。「今度は風牙さんのお店でオフ会だ~」はしゃぎながらも皆さん魅力的なお話に引き込まれるが、なぜこの方がセルシオに乗っていられるか、それがいろんな意味で解かった場面でもあった。


二手に分かれたクルマは、東京駅と池袋駅へそれぞれ向かった。東京駅への江戸川号には、駒ABCさんと、京都まで戻るノリさん。池袋駅への風牙号には府中さんとはぶはぶさんと、をいら。特に大きな渋滞に巻き込まれることもなく、18:00頃には到着した。池袋駅前はスーツ姿の往来が激しくなっていて、そこは一時離れていた日常そのものの姿だった。「それでは、また」荷物をあらためて自分で持つと、両手が塞がってしまうことを思い知らされる。頭と言葉で別れの挨拶を交わし、電車での帰途についた。


ゴールデンウィークが目前だと言うのに、こんな充実感を味わってもいいのだろうか。そんな少しばかりの罪悪感の混じった贅沢な気分は、しかしきっとをいらだけのものではないだろう。


                      ~終~


「天童旅行記」 第十一話

第十一話「若松寺」


4月25日(月) 天童 曇


朝風呂を済ませて我々9人がチェックアウトしたのは9:00頃。特に申し合わせたわけではないのだが、ゴミをまとめようという雰囲気ができあがって、部屋を片付けてからのことだ。ゴミ袋やら酒ビンを出して、「お世話になりました~」二見館のフロントに挨拶して出発する。


最初の目的地は「若松寺(じゃくしょうじ)」 。3台のクルマに分乗して向かう。場所は天童市街から東にはずれた山の中だ。クルマで15分ほどかかり、途中からは脇に杉林の立ち並ぶ登りの山道で、やがて人が住んでいる気配もなくなる。気楽に歩いていける道のりではない。


到着すると、そこはもう人気のない静かな世界。鳥の鳴き声だけが響き渡っている。お寺の入り口に石碑が立っていて、刻まれている文句を読むと「めでためでたの若松さまよ」これって有名な花笠音頭じゃないですか!「若松様」ってここが本家だったんですか~、と皆さん感心しきり。「ここは縁結び観音が祀られているんですって」石碑の前にみんな並んでパシャリ。


石碑の向かいには売店があった。売り物を眺めていると、ほどなく店員のおじさんとおばさんが応対に出てくる。若松寺オリジナルの記念アクセサリーやら地元の銘菓やらが売ってあって、メンバーが買い求める。をいらが買ったのはまたも地元出版の読み物「バカな女のジグザグ人生」、70歳のおばあさんが書いたというエッセー集である。あたたかい文章が印象的だ。「字が大きくなってて読みやすくしてあるんやね」パブルさんが横から突っ込む。


買い物を終えて奥に進むと、おみくじと賽銭箱。おみくじが2種類あって、50円のは普通のおみくじ、もう一つは100円で「恋みくじ」。さすが縁結びドコロだなあと油断していると、なんとあろうことか、みんな恋みくじのほうをひきはじめた!既婚者とモテない人ばかりなのに・・・。をいらも恋みくじのほうを引いてみる。


パラパラと畳んである紙を開いてみると、やった中吉だ!これって大吉の次だよね?なんと書いてあるのかな?「悲しいことは忘れて、新しい出会いに期待しましょう」って?全然嬉しくないんですけど・・・。あ、ひょっとして吉の半分で、中吉なんですか?


さらに登って境内のほうへ。途中の道から見える眺めが、山の両脇の小道が前方にのびる景色ですばらしい。境内では、重要文化財の縁結び観音があるらしいが、賽銭箱のところからでもよく見えなかった。ドラみたいに大きな鈴を打ち鳴らし、「将棋が強くなりますように」。


さらに上のほうはもう山頂らしい。和歌を刻んである歌碑が、小林を囲むようになっている道沿いに30くらい立っている。地元の方が詠んだらしく、人生を振り返るようなものだろうか。


さて、戻りましょうかと駐車場のほうへ。クルマに乗り込むと、初老の方数人が意外な言葉で声をかけてきた。「あらあ東京からですか。懐かしいわあ」聞けば、十数年前は首都圏に住んでいらして、現在は山形に永住されているとのこと。「山形はいいところですよ~」ステキな老後をお過ごしのようだ。うらやましい限り。


さて、次はどこへ行きましょうか。見学できるのはあと一箇所くらいですかね。とりあえず市街地へ戻りましょう。


緊急特別企画 「アメブロの中心で愛を語る」

数々のコメント、トラックバックありがとうございました。下記企画は終了とさせていただきます。

【あなたの考えるアメーバブログの優位点・魅力を教えてください】


この度、をいら こと 月下の調べ の友人でもある「キングコージ氏のブログ」 (はてなダイアリー)からトラックバックを受けました。そもそもコトの発端は、をいらの挑戦的ともとれる発言にあるわけですが、この発言を冒頭に据え、「挑戦状」と銘打った彼の記事 には、彼なりに捉えた「はてなダイアリー」の優位点や魅力が列挙されています。


つきましては、アメーバブログの優位点や魅力を紹介した記事でお返しするのが礼儀だと考えましてこの記事を起こしました。ただ、をいらが考えるアメーバブログの(他ブログシステムに対する)優位点というのは、そこに根付いている人的コミュニケーション文化だと考えています。


具体的に言うと、

1.コメントがつきやすい。

2.ブログ間の交流が盛んである。

3.1.項 2.項 を求めた人々が集まりつつあって、相乗効果により、ネットワークがさらに成長してきている。

ということなんです。


そこで!アメーバブロガーの皆さん!


是非この記事に「あなたが考えるアメーバブログの優位点や魅力」コメント、または記事のトラックバックでいただけませんか。そのコメントや記事の数々をもって、キングコージ氏に見せ付けてあげようと思っています。


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ちなみに余談ではありますが、ご覧になれば分かるとおり、キングコージ氏のブログは粋なギャグに満ちており、ちょっと哲学的に語って見せたりもしています。これほどの内容と才能がほとんど放置されているのを、アメブロなら人気ブログになるだろうなと、をいらはいささかかわいそうにも思ったりします。ただ、はてなダイアリーに魅力を感じている彼をアメブロに転向させようという意図はございませんので、その点はご了承ください。

参考ブログ「【無料ブログ比較なら】まあ待て、ブログを借りる前にここを読め。」

「天童旅行記」 第十話

第十話「二日目の夜」


シャトルバスに乗り込んだ我々は、市役所前へと戻る。車中では、隣に座ったパブルさんと、指導将棋の検討会。「こうやられたら困ってたんじゃない?」「あーなってこうなるでしょ。そこでこう飛車を回る手を考えていたんだ。」空中の盤面が、人差し指と、符号の言葉で動く。


市役所からは正宗号で、途中銀行に寄ってから、二見館へと戻る。正宗さんは明日仕事のことで、今日中に仙台に戻ることになった。「それじゃぁ、またネットでお会いしましょう」。をいらたちは明日も休みをとっているけど、一般の休日はもう終わろうとしているんだな。ロビーでは、パブルさんが新潟で買ってきたという馬券を携帯のディスプレイと見比べて、やったあ!万馬券が当たったらしい。をいらも銀行で、お金下ろしておいたんだわ。明日は追加の御土産が買えそうやね。


一緒に出たはずのセルシオがなかなか戻ってこない。「だいじょうぶですかぁ?」同乗しているノリさんに電話すると、やはり道に迷っているとのこと。そう言えば、今朝もをいらの道案内がまずくて少し迷ったんだったな。パブルさんも初日に二見館に来るときに少し迷ったみたいだし。観光案内のマップがあるから致命的ではないが、天童市街の道路は少しわかりにくい構造らしい。目印になるような建物が見つけにくいからだろうか。方向感覚が狂いやすいような気がする(この旅行記を読んで天童へ行ってみたいと思った方は、注意してくださいね)。


 そうこうしているうちに、皆さん無事帰還。温泉に入りましょうか。いててて。日焼けしたらしく、顔がヒリヒリする。同じ湯船で江戸川さんとしばし歓談。こんなに楽しいイベントだったなんて驚きでしたねと話をしながら、めずらしく動き回った体をお互い緩める。


 夕飯までは将棋をして過ごすことに。風来坊さんに飛車を落として指したが、うわ、今日のふーさん、指導将棋で完勝しただけあって強い!積極的な作戦を取られ、簡単に負かされた。「飛車落ちなら江戸川スペシャルがありますよ。へへへ」いつもは平手で指している江戸川さんにまで飛車を落として指すハメに。悔しいから定跡形を外して戦ったが、もちろん勝てるはずがなかった。そうこうして遊んでいると、夕飯の時間になる。


 夕飯の時間、残ったメンバー(府中、ノリ、風牙、江戸川、駒ABC、風来坊、はぶはぶ、パブル、月下、以上敬称略)の9名は、全てインターネット将棋道場「将棋倶楽部24」上のサークル、「友遊クラブ」 のメンバーだ。友遊クラブは会員数150名程度と数あるサークルの中でも最大手の部類で、小学生から60代までと、幅広い会員がいる。会長である府中さんの日々の勧誘活動が功を奏してのものだが、ここまで手広くなると、仲がいい人ばかりというわけにもいかないのが実情で、最近もトラブルがあったばかりだ。


 こういうときは、サークルの話題を出してもいいんですよね。「府中さん、誰でも彼でも勧誘してらっしゃいますけど、友遊クラブをどういうサークルにしようとしてるんですか?全然見えないし、勧誘がいいとも思えないんですけど」と、日頃思ってて聞けなかったことを口にしてみた。軽い気持ちだった。しかしこの言葉を皮切りに始まったのは、意見交換会。そして分かりやすい言葉で語られた府中さんの「理念」と「夢」。友遊クラブを想う人たちが直接顔を合わせた場でならではの貴重な対話イベントとなった。この中身については、いずれ別の形で紹介したいと思っている。とにかく、友遊クラブが目指しているものがよく理解できたし、皆さんがどんなことを日頃考えているかも交換するいい機会になったと思う。


 夕食が終わったら、また将棋♪今度は、午前中に訪れた詰め将棋広場の問題 にチャレンジ!風牙さんがデジカメに収めたもを見て、5人ほどで束になってトライする。「この問題難しいんですよね~」「こうやると逃げられるから、同じコトを反対側でやって・・・」「ああここまで来たら、こうやって詰みますね」3人寄れば文殊の知恵、というが将棋指しが5人集まったら無敵!?中級までの10題が次々に解かれていった。しかしどれも味のある作品ばかり。へえ~と感心しながらの詰将棋鑑賞会のひととき。


 20:00になって、「義経」を観ますよ、と言っていた大河ドラマファンの府中さん、10分もしないうちにテレビの前でうたた寝をはじめた。あらら、お疲れ様。駒人間の役に、夕飯のときのディスカッションと粉骨砕身の一日、本当にこの方には頭が上がらない。


 そう言えば、をいらは昨日からずっと、一度も将棋で勝っていないな。このままでは悔しい。ようし、風来坊さんリベンジだ、角落ちで指しましょう!序盤少し押されたけど、風来坊さんの無理な攻めを誘って逆転に成功する。さあ追い詰めましたよ。竜を作られたけどこれは詰みですね~。参りましたと風来坊さん。あらら?これはもしや・・・。




やった!駒柱だあ!

(駒柱:同一列の全ての枡に駒が埋まっている状態のこと。対局中の局面として滅多に生じないため、縁起物とされる。)


その後も将棋や麻雀やテレビにうたた寝。思い思いに過ごして皆さんの夜は更けていった。


 


「焼かれたCD」 第七話

第七話「夏の憂鬱」


ホ長調の、楽しい雰囲気の「春」に続くのは、打って変わってト短調の、つらい雰囲気の「夏」。


第一楽章「けだるい暑さ」

太陽が焼けつくように照るこの厳しい季節に、

人と家畜は活力を失い、木や草でさえ暑がっている。

すっかり失われた元気を、巧みな合奏が描き出す。人間も動物も、木々や草々、どこに始点を移しても見渡す限りしおれてしまっているのだと描写する。コンサートマスターは前に出ず、クラヴィコードがはっきりと聞こえて、もうろうとした雰囲気だけが伝わる。


かっこうが鳴き、山鳩とびわが歌い

コンサートマスターが、かっこうの鳴き声をトレモロに交えるという超絶技巧で奏でる。鳴き声の部分は低音だ。続けて山鳩の歌を悲しいメロディーで、びわの歌を高音のけたたましいトリルで模倣する。ヴァイオリンはこんなにも美しい音色なのに、伝わってくるイメージはうっとおしさそのものだ。


そよ風が吹き、北風が不意に襲いかかる

そよ風をさも優しく心地よさそうに3部のヴァイオリンの和音が描き安心させるが、突然北風の激しく重たいトゥッティがそれを押し流す。


羊飼いの嘆きと恐れ

北風が止んで再び訪れたけだるさに、羊飼いの嘆きを切々とコンサートマスターが歌い上げる。そしてあやしくなった天気と渦巻く風とに抱かずにいられない恐怖の予感が合奏される。


第二楽章

稲妻、雷鳴。そして群れなす無数の蝿。

そのために羊飼いの疲れた体は休まらない。

疲れきった羊飼いの嘆きをどこかやるせなくコンサートマスターが歌う。合間に轟く雷の低音トレモロのトゥッティ。


第三楽章「夏の激しい嵐」

羊飼いの恐れは正しかった。

嵐が来た。恐怖の正体はこれだったのだ。前奏のわずかな予感のあと、実体が押し寄せる。


空は雷鳴を轟かせ、稲妻を光らせ、

合奏で地に響くように描かれる雷鳴。華麗なソロできらめくように描かれる稲妻。


あられさえ降らせて、熟した穀物の穂を痛めつける。

ばらばらと降り出すあられ、あろうことか手をかけて育ててきた穀物までもが被害を受けているとヴァイオリンソロの悲痛な叫び。そしてそこから生まれる絶望感を含んだ沈み込むような合奏がこの曲を締めくくる。


回避する手段のない長くうっとおしい暑さと、イライラする鳥や蝿の存在。たまに訪れる恐怖の実体。ヴィヴァルディが描いたのは、人間の力ではどうにもできないことにこの夏の自然現象に対する、無力感や絶望感をも含んだ、そんな人間の憂鬱なのだ。



やっちゃった、こんなことするんじゃなかったよ・・・。そう思ったときはもう、何もかも遅かったんだ。


とある日曜日、LPレコードを聴いた後になぜか無性に遊びたくなった小学一年生の僕は、父の伸縮式の白杖を面白がって持ち出していた。父は庭いじりをしている最中で、杖は外出するときは必ず持っていくものだから、盲目の父を導くこの不思議な棒に触れてみる機会なんてこんなときぐらいしかない。父の部屋に戻り、しばしその金属性の杖を眺めた後、父が扱うように突いてみたり、伸縮させたりしてみた。そしてそれに飽きると、バットみたいに思い切り振ってみた。すると、なんと可動伸縮式になっていた杖の先端部分が予想外に脆くも外れ、しかも飛んでいった先の、出したまま壁に裸で立てかけていた1枚のLPレコードを直撃した。黒い円盤はさほど大きくない音を立てて、飛んでいった矢が当たった個所から折れるように二つに割れちゃったんだ。


白杖とレコード、まずいことが2つも同時に起こった。庭に居る父はまだ気がついていない。僕は割れたレコード盤をケースにしまい、壊れた白杖の先端部分を差し込んで玄関の傘立てに戻したけど、夕方になっても、一緒に過ごす食事時になっても、うまく父に切り出せない。翌朝、父が出勤するときになって白杖のことだけが発覚した。こんなことをしでかすのは一人しかいないと、犯人がすぐにわかったようだった。


 父は僕を大声で呼び出すと、予想していたよりもさらにひどく叱った。

「どうして早く言わないんだ。どうして隠したりしたんだ。隆志、わけを言ってみろ。」

大きく広げられた父の右手がちょうど僕の顔の高さの位置に構えられ、いつ振り切られてもおかしくないエネルギーを溜め込んで少し震えているじゃないか。

 どうして、どうして。そんなこと言われたって。自分にだってよくわからないよ。

説明の言葉が出ない僕は、それまで味わったことのない恐怖から、ずっと抜け出せないまま立ちすくむしかなかったんだ。怯えるあまりできなかったけど、泣き出すことができたら、それで許してくれたのなら、どんなに救われただろう。


 結局僕は、時間が許してくれるまでずっとその恐怖を刻み込まれ続け、レコードを割ってしまったことも結局申し出られなかった。僕はその日の夕方、割れたLPレコードをケースごと僕の部屋へ引き上げ、引出しの奥に封印した。あの恐怖から逃げるには、そうするしかないと思ったからだ。


 それからというもの、僕は父の顔色を窺いながら、たまに機嫌が悪くなることに怯える日々を過ごすようになった。同時に父の前では、僕自身が感じたこと、考えていること、やってみたいこと、父にやめて欲しいこと、全てうまく言い出せなくなってしまった。いや、それは学校の生活でも同じで、言葉の力を失った僕は、友達が減っていき、たびたびいじめられるようにもなった(もちろんこのことも両親に言い出せなかった)。唯一の親友は柴犬のタロが3年ほど務めてくれたが、やや気性が荒く、すっかり大人になって手に負えなくなったタロは、ある日夜に首輪の紐を抜き出すと遠くの交通量の多い道路にまで駆けていってクルマの前に飛び出してしまい、あっけなくその生涯を閉じた。


 それからの僕にとって、ピアノが唯一の救いだった。ずっとそう思っていた。練習を重ねさえすれば、たとえ難しい曲でもいずれ弾けるようになる。そういう実感を重ねながら、日々のつまらない練習曲を次々とこなした。右手でメロディーをまるでレコード曲のように豊かに歌わせるのが得意なのだとも気がついた。いつかはあのショパンの英雄ポロネーズを、きっと華麗に弾けるようになる。聴く人にその曲のイメージを、きっと豊かに伝えられるようになる。その希望だけが、日々の退屈な作業を支え続けてくれた。僕がピアノを弾く毎日は、幸い音楽好きの父をなだめさせることができる手段にもなった。「四季」のCDの、あの聴き比べは、そんな日々の中での出来事だったし、割れたLPレコードのことは、結局父には話せず、永遠に封印されることになった。


 しかし現実は甘くなかった。中学生2年生も後半になった僕は、音楽への道を模索すべく受験の勉強をはじめたんだけど、同じ道を志す少年少女、つまり競争相手たちと交流するようになって、その才能に圧倒された。彼らは音を聴くだけでその曲を弾いてみせ、楽譜を見るだけでその音を聴いてみせた。バッハの複数に重なる旋律を同時平行で歌ってもみせ、リストやショパンの技術的に難しい曲も豊かに表現しながら弾きこなしてもいった。


 英才教育で養われた音感が違う。そこから産み出された才能も、上達するスピードも違う。音楽家の卵たちにとって、彼らの目と耳はピアノやオーケストラの楽器そのものだったし、彼らの指は自身の歌声そのものだった。──僕のピアノは、僕がずっと取り組んできた音楽というものは、楽譜どおりの鍵盤タイピングと、レコードの真似事でしかない──僕は高校受験の選択を迫られる頃には、ピアニストになるという夢を、音大付属高校への進学を、諦めざるを得なかった。父がその事実に落胆し、そんな僕自身に失望したのがわかった。


父はちょうどその頃、母と毎晩のように言い争いをするようになった。盲学校の教員を辞めたいのだと言う。安定した収入を求める母と、独立して鍼の治療院を開業したいと主張する父。話し合いはしばらく平行線をたどった。

──


他の乗客には誰にも聴こえない、僕だけの、ヘッドホンから流れる「夏」、激しい嵐の第三楽章が終わりかける頃、列車は県境をいつの間にか過ぎていて、緩やかな減速のあと福島駅に到着した。少し長く停車しているのは、先着している「やまびこ」とドッキングするためだ。これからこの「つばさ」は東北新幹線の本線上を200km/hをゆうに超える速度で防音壁に覆われたコースを走行することになる。しばらく続いた田畑や温泉街の風景とも、もうお別れだ。


さようなら、山形。2年間を過ごした場所。